004 : Sol mutat formam.

 ラトは幼いころから、精霊と話をすることのできる子供だった。これは珍しいことではあるが、別段おかしなことではない。少なくともラトはそう思っていた。直接その場を見たことはなかったにしろ、ラトの知り得る二人の占い師も精霊と話すことができたし、事実彼女たちは精霊達と交流をし、知識を得ることで占をたてていたからだ。

 だからラトも、彼らと会話をすることに何の不思議も感じてはいなかった。一人で時間を持て余している時、あるいはいなくなった羊を探すとき、ラトは必ず彼らに声をかけた。彼らもまた、それに応えた。だからこの時も、彼らに任せてさえおけば、何の心配も要らないだろうと思っていた。

「それじゃ、今日も頼んだよ」

 ラトがそう言って微笑むと、地の精霊が微笑み返したのがわかる。精霊達との会話は、いつだってこんな調子だ。頼もしい返事に気をよくし、羊たちが精霊に導かれていくのを見送ると、ラトはポケットからしわくちゃになった札を取り出した。

 掌で擦り合わせて、破れないようにしわを伸ばす。ラトは大きく息を吸い込むと、その札を額に貼り、町へと続く道を駆け始めた。

 ラトがこうして町へ通うようになってから、つまりラトが町で禍人に会った日から、もうかれこれ三日が経っていた。ラトは毎日精霊達に羊の番を任せ、誰にも知られないようにこっそりと、町へ行って探検をした。始めのうちこそ、あの日町で会ったホロが何か行動を起こすのではないかと心配していたが、どうやら気づかれたと思ったのは気のせいだったようだ。その事を誰かに咎められたことは一度もない。

 手に入れた札のことは、タシャはもとより、ニナにも秘密にしている。ラトが町へ出ることに関しては賛成派だったニナも、きっと札のことを知ればタシャにそれを話してしまうだろう。禍人は、タシャは札を嫌うだろうと言っていた。禍人と初めて出会ったときのタシャの反応を思い返すに、その可能性は十分にあり得た。札のことを知られて、没収などされてしまってはつまらない。

 それにこの札さえあれば、町でニナに会ってしまったとして、気づかれることなどないはずだ。それなら何も言わずにいた方が、互いに気楽に済むだろう。

 町でおやつを買い、田畑に並んで流れている大きなタネット川の側でそれを食べる。飽きれば、今度は水車や市場の見学だ。

 市には、いつでも大勢の人々が行き来しさざめきあっていた。ラトは中でも、行商人が天秤を操る仕草が好きだった。片側におもりを乗せ、もう片側に、素早くそれ相当の量の香辛料を乗せる。そうするとほんの一挙動で、天秤はぴたりと動きを止めるのだ。お客が感心して眺めるのを見て、大抵の行商人は自慢気だった。

 甘酸っぱい木の実をかじり、時たま、札がはがれていないかどうかを手探りで確認する。町の人々にはラトの三つ目はおろか、札のことすら見えていないらしい。ラトは何人か見たことのある顔に会っていたのだが、相手は気にとめた様子もなしに、ラトの隣を通り抜けていった。

 そうやって道を進んで行くうちに、いつのまにか、ラトは入り組んだ路地裏に迷い込んでいた。右も左も同じような木造の家。辺りには目印になりそうなものもない。とはいえ小さな町だ。すぐに抜け出せるだろうと辺りを見回して、ラトははっとした。すぐ頭上から、窓を開く音がしたのだ。

「何をしているんだ?」

 子供の声だ。ラトは慌てて上を向き、額の札が外れないよう手で抑える。

「町の探検を。その、僕は行商人の息子だから、この町のことをあまり知らないんだ」

「そう、楽しそうだな」

 窓の枠から、微かに金色の髪が見えた。赤茶けたラトの髪とは違い、透けるような美しい髪だ。声から察するに、恐らく相手は少年だろう。町の子供はまだ遊び回っている時間帯だが、彼はあの部屋で、一体何をしているのだろう。

「君はこないの?」

 ラトは、恐る恐るそう聞いた。少年の声は随分くたびれており、ラトが少しでも下手なことを言えば、消えて無くなってしまいそうに儚く思えたからだ。

 少年が溜息をつくのが聞こえてきた。どこか遠くの高山を駆ける、風のような溜息だ。

「俺はここから出られない。会いに来る友達もいない」

 儚いが、けっして弱さのない声。寂しげだが、それでも優しさのある声。一体どんな人なのだろうと、好奇心が募っていく。

「君の名前は?」

「――高原の風」

 なんて似合いの名前だろうと、ラトは思わず考えた。相手の声がまるで、憂えて尚、天高くそびえ立つ山をも撫でて駆け去るような、そんなふうに聞こえたからだ。

「珍しい名前だ」

「わけあって、本名は名乗りたくないんだ」

「そう……。だけど、とても良い名前だね。実は僕も、本当の名前を名乗れないんだ。高原の風、何か良い名前はないかな」

 しばらく、返事はなかった。それでも高原の風の視線だけは、強く感じることが出来る。ラトは静かに佇んで、新たな名前を待っていた。

「……それなら、お前の名前は夕日だ。じきに夕日の時間になるだろう。俺のいる場所からはお前が煌々と輝いて見えるのに、お前にはどこか影があるから」

「夕日――。良い名前だけど、今の僕にはどこか苦しいな。僕に影が見えるというの、少し心当たりがあるから。それを君に話すことは出来ないけれど……」

 高原の風は短く、ふ、と笑ったようだ。それは、何か悲しい笑い方だった。それから小さく呟くように、

「太陽は、闇を経て必ずまた顔を出す。俺にはそれが羨ましい」

 こう言った。その一瞬相手の声が遠くなったような気がして、ラトは思わずはっとした。彼には始めに話しかけた時のように、驚かさないよう、注意しながら話した方が良さそうだ。

「夕日」

「なんだい」

 相手の方から名を呼んだのに、いったんそのまま言葉が止んだ。ラトは窓を見上げたまま待ち続けていると、随分経ってから、高原の風が言葉を続ける。

「行かなくて良いのか。探検の途中なんだろう」

「……そうだ。そろそろ行かなくちゃ」

 もうじき日が落ちる。その前には家へ帰らなくては。ラトはもう一度だけ窓を仰ぎ見たが、高原の風がそれ以上には何も言わないのを見ると、もと来た道を進み始めた。しかしそうしてようやく、それを追うように、高原の風がこう尋ねる。

「何年かしたら、また会えるか」

「次に会うのに、何年もかかるの? 僕なら、明日も明後日も会いに来るよ」

 背を向けているのに、ラトには、高原の風が悲しげな顔をして首を横に振るのが見えるようだった。だからだろう。それ以上追求してはいけないのだと、ラトはこの時悟っていた。

「何年先でも良い。また会おう、夕日」

「そうだね、また会おう」

 そう言って、もう一度頭上を見上げてみる。その時になってようやくラトは、その小道に面した壁に、窓など始めから一つもなかったのだと気づいた。

(精霊の声だったのか)

 あんなにはっきりと聞こえたのは、久々だ。ラトは窓があった場所を見つめながら、呟いた。

「いつかまた会おう。高原の風」

 

(夕日を見て帰ろう)

 そう考えながら、羊たちのいる丘を登る。日が落ちるまでに家へ帰り着かなくてはならないが、少し寄り道するくらいならば良いだろう。

「みんな、帰って来たよ」

 羊たちにそう呼びかけて、ラトは首を傾げた。羊たちがいつものように寄ってこない。それどころか、今日はまるでラトのことを避けるかのようだ。

 ラトはしばらく不思議がってから、「ああ」と笑って自分の額に手を伸ばした。三つ目の上から貼り付いた札を剥がし、きれいに畳んでポケットへしまう。

 うっかり、札を貼ったまま帰って来てしまった。ラトは注意を疎かにしていた自分自身に深く反省して、羊たちの頭を柔く撫でる。もしも『うっかり』札をつけたまま家へ帰ったりしてしまったら、大変なことだ。

「君たちも、ありがとう」

 大地の精霊に礼を言う。反応が少し鈍いようだったが、それも札の影響なのだろうか。

 考えているうちに、ふと、湿り気を含んだ風が、ラトの頬を撫でた。さっきまではからりと晴れていたのに、今では空気が泣きだしそうだ。仰ぎ見るといつの間にか、雨雲が空を包み始めていた。

「――仕方ない。みんな、帰ろう」

 夕日を待っている間に、恐らく雨が降り始めるだろう。そう考えたラトが丘を下り始めると、どこかから、聞き覚えのある声がした。

「夕日が見たかったのかい」

 禍人だ。ラトは一度頷くと、何でもないかのように空を見上げる。

「そうさ。だって夕日は、僕の新しい名前になったんだもの」

「新しい名前だって?」

「町の子が……高原の風が、そう名付けてくれたんだ」

 聞いて、禍人が低い声で笑う。それを聞いてラトも笑った。最早ラトに、禍人を恐れる気持ちは少しもなかった。慣れてしまえば、精霊と禍人、どこが違うというのだろう。姿が見えない相手と話すことに抵抗などはなかったし、数日前まではこの声を得体の知れないものと思って脅えていたのが、今では情けないくらいだ。

「夕日……夕日。良い名前だ。待っておいで。近いうちには、必ず最高の夕日を見せてあげるよ」

「君には、そんなことまで出来るの?」

 笑い声が、一層大きくなる。

「できるとも! おまえがしたいと願うことなら、なんだってしてあげよう。お前が喜んでくれるのが、私にとっては何より嬉しいことなのだから」

 聞いて、ラトは微笑んだ。町の子供にも、タシャにも、ニナにさえ本当のことを告げられなくなった今になっては、禍人だけが、ラトを理解してくれる唯一の相手だとさえ思える。

 丘の上から、町を見下ろす。曇り空の下に、ラトが焦がれてならなかった、小さな小さな町があった。

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