風の謡*第二章 // 導きの炎、風の刹那
ただがむしゃらに。するべき事は、わかっていた。
015 : At full gallop -1-
軽やかに、窓から身を躍らせる。
涼しげな音を立てて地面に降り立つと、アルトは辺りを見回し、先ほど自分で落とした荷物を探し始めた。そうしてそっと静かに窓を閉ざし、植え込みの影に隠れたそれを見つけ出す。アルトはにやりと笑って、屋敷の方を振り返った。
デザートにはどうしても、テサの実のタルトを食べたいと駄々をこねておいた。あの実はこの辺りでは滅多に栽培していないから、少しくらいなら時間稼ぎができるだろう。
荷をほどいて元通り、ベッドカバーとスカーフ、赤い布きれとに分ける。アルトは胸元のペンダントに触れると、部屋に残してきた手紙のことを思った。
父王、アドラティオ四世に向けた手紙。信用してもらえるかはわからないものの、そこには全て、本当のことを綴ってある。そうして最後の一文には、こう記した。
(『勝手を許して欲しい』か。我ながら、ムシの良い台詞だな)
なんとかして父王に認められようと、何もかもをなげうって必死になったこともあった。それなのに、今はどうだ。ようやく認めてもらえるかもしれなかったチャンスを、わざわざ自分の手で不意にしようとしている。それでもアルトには微塵も、自分の行動を後悔しようという気は起こらなかった。アルトには今、何にも変えてやるべきことがあるからだ。
それは、アルトの心に初めて起こる衝動だった。得体の知れない責任感、そして、使命感。それらが今、物言うこともなくアルトを突き動かしている。
屋敷の方から誰かの話し声が聞こえて、アルトははっと身を隠し、聞き耳を立てた。なんということはない、誰かの世間話だ。そろりそろりとその場を離れると、周囲に誰もいないことを確認する。用意していた小道具を手に取ると、手早く身支度を調えることにした。
ベッドカバーは腰に巻き、スカーフでそれを固定する。結び目を上着で隠し、余分な部分をナイフで切り取ってしまえば、これでも十分、スカートのように見えるだろう。次は頭だ。髪をほどき、もう一枚のスカーフを女がするようにふわりと巻く。鏡がない為なんとなくではあるが、簡単に整えたら準備は完了だ。
(ナファンが見たら、情けないって嘆くだろうな)
使用人の格好をするだけだって、あれだけ嫌がられたのに。思わず苦笑が漏れる。
赤い布きれを手に持つと、アルトは注意深げにもう一度、周囲を見回した。人の姿が見えることもなければ、騒ぎの声も聞こえない。少なくとも、アルトが部屋を抜け出したことについてはまだ気づかれていないようだ。
(――まあ、こんな身なりであれこれ考えても、格好がつかないか)
上品にスカートの端をつまみ、アルトは小走りに進み始めた。向かう先は厩である。そこに調度品として連れてきた馬が、何頭かいるはずだ。一頭で良い。手に入れることが出来れば、後はマラキアまで駆けるだけだ。
建物や草木の陰を通り、急ぎ足に厩へ向かう。しばらく行くと、進む先から話し声が聞こえてきた。
「一度でも良いからさあ、こういう立派な馬で遠乗りしてみたいよなあ」
若い声だ。おそらくは、馬番を任された少年兵だろう。その声の背後には、馬たちの鼻息が聞こえてくる。アルトはそれとなく身を隠して、手に持っていた赤い布を、目の上へと巻いた。
「見ろよ、この毛並み。走らせたら、さぞかし速いんだろうなあ」
「そりゃ、王族の馬だからな。でも、首都の騎士団長の馬だって相当良い馬さ。昇進していけばそのうち、良い馬をもてるかもしれないぜ」
「バカ。昇進していけば、って、騎士団長になんかめったやたらになれるもんか」
数人の少年兵達がそう言って笑い合う。
楽しそうな、友人同士の会話。一抹の羨ましさを感じながらもアルトは、内心で臍をかんだ。
彼らは、いつになればここから去るのだろう。ある程度の見張りがついていることは覚悟していたが、アルトの予測を倍近く超える人数のようだ。
(この状況じゃ、変装してるからって流石に正面突破は無理だな)
眉根を寄せた、その時だ。
「うん? そこにいるのは……」
背後からも声がして、アルトは思わず息を呑んだ。すぐ前には厩の見張り、うしろには交代の兵士。あろうことか、囲まれてしまったのだ。
慌てては、目立ってしまう。アルトは一度だけ深く息を吐くと、覚悟を決めた。この程度の変装なら、今までにもマラキア宮で何度だってやって来たことだ。こうなったら、白をきり通して一度この場を離れよう。少しでもはやく馬を得たいことは確かだが、ここで事を大きくして、そもそもここを出られなくなってしまっては元も子もない。
しかしアルトは、その直後に聞こえた声に、思わず口元を緩ませる。
「ここの神官か? 何やってるんだ。こんなとこで」
知った声だ。アルトは頭の中で簡単に行動をシミュレーションして、うん、と一度、自分自身に対して頷き、しとやかに振り返ってみせる。
「そのお声は……」
空気を含んだ、囁くような声。女性の声にしては若干低いだろう自覚はあるが、この声で一度、ナファンを騙し通したことがある。アルトは目隠しを透かし、素早く目の前の少年兵の人数を確認した。交替に来た兵士の数は、どうやら三人。アルトはそれとなく右手を胸の前に添えると、相変わらずの声音で言った。
「クロトゥラ様……! わたくしのことを、覚えておいでですか?」
マラキア宮で会った、双子の近衛。先ほどの声は間違いない。事実、少年兵の一人がアルトの言葉に驚いて、「は?」と間抜けな声を出したのがわかった。
目隠しをしているとはいえ、万が一正体が知れてしまっては問題だ。アルトはクロトゥラであると確信した人物のもとへ駆け寄ると、顔を隠すために躊躇いもなくその胸へとしがみついた。後の二人のことなどお構いなしである。ともかく、この場を離れなくては。
クロトゥラがもう一度間抜けな声で叫んだが、それにも取り合うことはしなかった。緊急事態だからということもあったが、アルトがクロトゥラと自身の身長差に、気分を害したからという理由もある。
「おお? カンシオン、おまえ案外手がはやいんだな」
「なんだよおまえ、女には興味ないようなこと言ってたくせに!」
「いや、待てよ。俺は……」
何か言いかけたクロトゥラの胸倉を、他の二人には見えないようにぐっと掴む。「話、あわせろ」と微かな声で言うと、アルトはちらりとクロトゥラの顔を見上げてみせた。目隠しを通しても、クロトゥラがぎょっとして後ずさったのがわかる。
「お、おまえっ、まさか……ア、アル……」
(馬鹿、俺の演技を不意にする気か!)
呆気に取られているクロトゥラを、アルトが心の中で罵倒したその時だ。
「アリアちゃん!」
天の助けのような声が聞こえて、アルトは思わずにやりとした。この声は、シロフォノだ。どうやら先ほど話をしていた馬番たちの中にいたようで、他にも数人の少年兵たちの声が聞こえてくる。
「ねえ君、アリアちゃんだよね! 家を出たとは聞いてたけど、まさかこんなところで会えるなんて……。僕のこと、覚えてる?」
アルトはそれを聞いてにこりと笑うと、クロトゥラを突き飛ばすようにしてシロフォノの方を向いた。シロフォノはアルトを隠すようにつかつかとすぐ目の前まで歩いてきて、仲間の近衛達には手短にこう話す。
「同郷の出身なんだ。年が近いから、昔はよく遊んだよ。だけどお互い、はやいうちに家を出たから……。懐かしいなあ。アリアちゃん、今、話せる? 僕、ちょうど当番が終わったところだからさ」
「ええ、勿論。双子の近衛がいるとうかがって、もしやと思って来てみて、正解でした」
「シロフォノ。アリアって、え。待てよ、ちょっとおかしいだろ」
尚も言い募るクロトゥラの言葉は、他の近衛達によってかき消された。よほどこういった沙汰に飢えていたのだろう。野次馬根性丸出しで、あれやこれやと質問攻めだ。シロフォノはそのどれもに余裕な顔で受け答えて、さもアルトのことを気遣うように、「ごめん。アリアちゃん、人見知りなのは相変わらずみたいで」と仲間に告げた。
「ちょっと向こうで話してくるよ。クロちゃんは……あ、これから当番か」
「いや、当番とかそういう問題じゃなくて」
「カンシオン……の、弟の方。おまえも久々なんだろ? 話してこいよ。俺が当番、代わってやるからさ」
「うん、すっげー助かるんだけどな。俺が言いたいのは……」
ばしんと小気味のよい音がして、クロトゥラがぷつりと言葉を切った。目隠しを透かしてうっすらと見る限りでは、どうやらシロフォノがクロトゥラの肩を叩いた音らしい。シロフォノはあくまで口調を崩さずに「ありがとう。クロちゃん借りてくね」と仲間に告げ、アルトの手を取り歩き始めた。
「あはは、ホントにびっくりしたよ。アリアちゃん」
最後に言ったその言葉は、どこか調子が上ずっていたが。
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