36. はじまりの朝

 ジュッと音を立てるフライパンを傾け、卵を広げる。ぐちゃぐちゃに混ぜ、片側に寄せて油を敷くと、また卵を流し入れた。

 卵を巻いていく。半熟の部分がないように、わざとしっかりめに焼いた。


「できた」


 お皿に卵焼きを置くと、頬が緩む。

 崇さんに言われたことを思い出しながら、一人で卵を焼くという作業を何回か行い、ようやく、危なげなく焼けるようになってきた。


 次は唐揚げだ。唐揚げの作り方は教わってないけど、スーパーで『揚げない唐揚げ粉』という商品を見つけたんだ。

 パッケージの説明通りに唐揚げの衣をつけて、焼くようだ。揚げ物はまだ無理だけど、焼いて作るなら私でも作れるかもしれない。


 鶏のもも肉を食べやすい大きさに切って、唐揚げ粉をまぶした。

 フライパンを温め、油を入れる。そこに鶏肉を入れて蓋をした。

 待つこと3分。蓋を開け、唐揚げをひっくり返すともう一度蓋をする。

 今度は待つこと2分で蓋を開ける。あとは2分ほど、カリッとするまで焼く。

 そうして出来上がった唐揚げのひとつを念のために切ってみた。ピンク色のところはなく、ちゃんと火が通っていそうだ。

 市販のものだから味は間違いないだろうし、一人でもどうにかなったと肩の力を抜いた。


「あとはプチトマトと、どうしようかな」


 私は冷蔵庫を開けて、今井さんが作り置いてくれている副菜を見た。


「んー。ほうれん草の胡麻和えと、マカロニサラダにしようかな」


 決めると早速、紺色の大きな2段のお弁当箱に詰めていく。

 2段の下には、昨夜タイマーをセットして朝に炊き上げておいた白米を詰め、真ん中には梅干しを置く。

 1段目には、卵焼き、唐揚げ、ほうれん草の胡麻和え、マカロニサラダ、プチトマトだ。


 本当は全部のおかずを手作りできるといいんだけど、まだそのスキルがない。そこで、お弁当を作り出した時点で、今井さんにはお弁当のおかずになるような副菜を多めに作り置いてもらえるように、お願いしていた。

 作り置きのおかずは夏になると傷みやすくなるそうなので、それまでに全部のおかずを自分で作れるようになればいいな、と思っている。

 先月より前の私だったら、こんな風に作れるようになるなんて全く考えていなかった。人間、やればできるもんだ。


「よしっ」


 詰め終えたお弁当がうまくできたと眺めると、私はスマホで写真を撮った。それを崇さんに『今日もなんとかできました』とメッセージをつけて送信する。

 お弁当は大きめのハンカチに包んで、結んだ。ちょうどそのとき、「おはよう」という声がかかる。

 顔を上げると、ワイシャツ姿のお父さんがキッチンカウンターの向こうで微笑んでいた。


「おはよう、お父さん。はい、お弁当」


 私は出来たてのお弁当をカウンターに置く。


「ありがとう。あれ、茜の分は?」


 一つしかないお弁当を見て、お父さんは不思議そうな顔をした。

 お弁当を作り出したのは、年が明け、お父さんの仕事が始まった4日からだった。私は冬休みで必要なかったのだけど、どうせならと思って自分のお弁当も作って、家で食べていたんだ。

 でも、今日はお父さんの分しか作っていない。買ったばかりの私の赤いお弁当箱は水切りカゴに伏せて置いたままだ。


「今日は始業式でしょ。半日で終わるから、帰りに真衣とご飯食べて帰るの」

「そっか。昼間だから大丈夫だとは思うが、帰りは気をつけなさい」

「うん。へへ」

「なんだ?」

「お父さんに心配されるの、なんか照れるなーって思って」


 ちょっと前までは心配されることも嫌だったくせに、最近は悪くない。お父さんと打ち解けてから、いろんなことが受け入れられるようになった。


「そ、そうか」


 照れが伝染したようだ。お父さんは耳をほんのり赤くしながら、冷蔵庫に向かう。朝ごはんのタッパーを取り出し、食卓に準備する。

 私の分も用意してくれたようで、お弁当作りに使ったフライパンなどを洗い終えると、食卓には二人分の朝食が並んでいた。

 お父さんと席につき、「いただきます」と手を合わせた。

 お父さんの仕事の都合で毎日ではないけれど、こうやって一緒に食べることが増えた。これが新しい日常となりつつある。



 食事も終わり、先に家を出るお父さんを見送ったあと、私も準備を済ませて家を出た。

 門扉の前には真衣が立っていて、手を振っている。


「おはよう、待たせた?」

「ううん。今ちょうど来たとこ。ねえ、それより」

「きゃっ」


 門扉を開けて外に出たところで、真衣に手を引っ張られ、つんのめってしまう。


「真衣?」


 怒ったような声を出すと、真衣は「ごめん、ごめん」と笑いながら謝った。全然反省していない。

 ため息をつきながら、駅までの道を歩く。


「で、何だったの?」

「んふふ」


 並んで歩きながら真衣に問うと、真衣はにやっと笑って変な声を出した。


「何」

「私、聞いちゃった。茜ってばお正月に崇さんと初詣行ってきたんだって?」

「な、なんでそれを」


 思わず立ち止まり、真衣を見つめる。数歩してから私が立ち止まったことに気づいたのか、真衣が振り返った。その顔はにやにやしている。


「お正月、うちに茜のお父さんが来たのよ。うちのお父さんとお酒を飲みにね。で、茜が崇さんと初詣行ってるって聞いてさ。それ聞いたうちのお母さんが、茜に彼氏ができたなら、言ってくれたら着物でも着つけたのにー! って言ってたよ」

「いや、彼氏じゃないし!」


 私は必死になって首を横に振った。鈴木のおじさん、おばさんにまで知られているなんて、恥ずかしすぎて、次に会うときはどんな顔をしたらいいんだ……。

 頬が赤くなっている気がする。左頬に手をあてると、心なしか熱い。


「でもさ、崇さんの家政夫の仕事はもう終わったじゃない。今井さん、戻ってきたんでしょ」

「うん」

「仕事じゃないのに会ってるのは、なんで?」

「なんでって……」


 直球の質問に、言葉を迷う。どうして会っているのか、私自身もわかっていない。

 私はもう会うことはないだろうと思っていたのに、元旦、崇さんから『あけましておめでとう。よかったら一緒に初詣へ行かないか』とメッセージが届いたんだ。断る理由はなかったので受けた。ただそれだけ……のはず。

 こういう関係を言葉で表すならきっと……「友だち、だから?」のはずだ。私はそう口にしていた。


「ふーん、友だちねえ」

「もう、変な目で見ないでよ!」


 真衣と言いあっていると、私のスマホがピロロロと音を立てた。メッセージが届いた合図だ。

 鞄からスマホを取り出して確認すると、崇さんからだった。お弁当の写真への返事だ。こんな朝に来るのは珍しい。


 ――旨そうだなー! よくできてる。今日から学校か? 頑張れよ。


 励ましの言葉を見て、嬉しくなった。『ありがとうございます』と返信を打つ。


「あーあ、笑っちゃって」

「え?」


 顔を上げて真衣を見ると、なんだか少し不機嫌そうだった。


「それ、崇さんからでしょ? 茜の世界が広がるのは喜ばしいことだけど、なんか親友取られたみたいで、複雑」


 私は真衣から嫉妬のような言葉が出たことに驚いた。つい笑ってしまう。


「あ、なんでまた笑うのよ」

「ううん。あ、電車来てるっぽいよ。走ろう」


 いつの間にか、駅のすぐそばまでたどり着いていた。駅の外から見えるホームには、電車が止まっている。手に持ったままのスマホを見ると、いつも乗る電車の発車時間まであと2分だ。本気でやばい。私たちは走って改札に向かった。


 なんとか電車に乗ったあとは、崇さんの話題だと落ち着かないので、わざと話を変えた。くだらない雑談をしていると、時間の流れが速く感じる。学校に着いてしまったのだ。

 昇降口で靴を上履きに履き替え、階段を上り、廊下を進む。そうするうちに段々と体が重くなってきて、真衣の話には上の空で返答していた。そうして、私は教室の前で立ち止まった。


「茜、入らないの?」


 真衣は首を傾げながら、私を見る。


「うん、ちょっと……」


 胸の前で服をぎゅっと掴む。その手には、真冬だというのに手汗がにじんでいる。

 大丈夫、大丈夫。

 私は大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着けた。そして、扉を開けた。


 中に入ってすぐのところで、佐藤さんと大園さんが笑いあっていた。二人はこちらを見ると、表情が固まった。笑顔が消える。

 その顔を見るとくじけそうになるけど、私はさっき崇さんからもらった『頑張れ』という言葉を思い出していた。

 大丈夫、頑張れる。


 私は二人に向かって歩くと、「お、おはよう」と声をかけた。返事を待つ勇気はなかった。そのまま、自分の席に向かう。

 その私の背中に、「……おはよ」と小さな声が届いた。驚いて振り向く。もう二人はこちらを見ていなかった。でも、確かに、佐藤さんの声だった。

 緊張がほどけ、私は自分の席に座り込んだ。心臓はまだドキンドキンと大きく脈打っている。


「茜、頑張ったじゃん。はい、ご褒美」


 と言って、真衣は私の机にキャンディーを1個置いていった。

 ご褒美が飴ひとつって……と思いながらも、嬉しくて、私は早速口に入れた。甘い苺の味がする。


 佐藤さんと大園さんが私を嫌っていることは前から知っている。さすがに友達になれるとは思っていない。でも、自分から一人でいようとするのはやめようと思ったんだ。

 そのためには、まずは挨拶からでもいいから、クラスの皆に話しかけなくては。

 私はふと窓の向こうに目をやった。さすがに星は見えない。それでもどうしてだか、心強かった。

 どんな小さな一歩でも、踏み出せばきっと。

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