第74話 灰と幻想

 かぐわしい香りが漂う研究施設内。

 僕らはコーヒーで、戦いの前の束の間の休息を楽しんだ。

 弟との会話は最初ぎこちなかったけど、診察台で見た夏の日の思い出話を通じて、次第に懐かしさで解きほぐされたのだった。

 でも博士が想定していた通り、弟の取り戻した記憶は部分的に欠落していた。

 僕や妹との記憶はあるのだが、父や母、祖母などの記憶は無かった。

 弟の現世での記憶はおそらく、小学一年生で止まっている。

 祖母の死。進路。交通事故。自身の死――。

 それらがまるでなかったかのように振舞う弟を見て、それは単に記憶が欠落しているからなのだと僕が気づくまで、そんなに時間は掛からなかった。

 コピ・ルアクの豆やそのコーヒーを見ても、首を傾げて不思議そうにしている弟の表情を見て、僕はすぐわかった。

 僕がコーヒーに目覚めたのは。中学生の頃だ。

 弟が僕の影響でコーヒーを知ったのは、そのもう少し後だった。

 このコピ・ルアクのコーヒーを、弟と共感し合えない歯痒さともどかしさで、僕は少し悲しい気持ちになった。

 しばらくして弟は、現世でのわずかな記憶と、死者の国で病室を抜け出してからの記憶から、欠落した部分の記憶を補うようにして、自らが既に死んでいることを悟った。

 正直誰が見ても、弟は困惑していた。

 全てを忘れ、渡し守として過ごした日々。そこにわずかな現世の記憶が重なった。

 混乱が生じても仕方無いだろう。僕はそう思った。

 でもしきりに弟は、僕に言った。


「兄さん……ごめん……ごめんなさい……」


「何言ってんだ、仕方ないだろ。記憶が無かったんだから」

 そう言って僕は、弟のカップにコーヒーのお代わりを注ぎ入れた。

 弟は目を潤ませながら、美味しいと言ってコーヒーを飲んだ。


 僕は弟の顔をまた見ることが出来ただけで、それだけで嬉しかった。

 弟の顔を見たのは、葬式以来だった。

 納棺された弟の遺体は、その体温を失っても、とても穏やかな顔をしていた。

 でも僕がまだ弟の死を実感出来ないうちに、弟は火葬炉へと入っていった。

 あの時の僕はまるで、無機質な人形のように感情は死んだようだった。

 骨と灰だけになった弟を見てもなお、僕には現実感がなかった。

 時が経つ程に降り積もっていく、後悔にも似た想い。

 あの時僕は、ちゃんと弟へ別れを告げられたのか――。

 でも僕は、この死者の国に訪れ、弟と再会した。

 そしてきっとまた、いつか訪れる別れの時。

 僕は今度こそちゃんと、弟に別れを告げれるだろうか――。




 博士は弟に、現状の状況を簡単に説明していた。

 弟は自分が死んでしまったという事実を、まだ飲み込めずにいるようだった。

 さらに僕が今回の事でこの死後の世界に連れてこられたと聞いて、とても申し訳なさそうな顔をした。

 そして黒き者や幸福バランサーの話を聞いて、弟は血相を変えて言った。


「もしかして今、転生希望を出している人達は――」


「ああ、キミが想像する通りだ。昨今の転生事情は非常に悪くなっていた。しかし今は完全にストップしているよ」

 弟の問いかけに、冷静に博士は答えた。

 それを聞いた弟は酷く落胆し、ぽつりと言った。


「――げんさん……」


 そう言って弟は、どこか遠くに焦点を結ぶように虚ろな目で、何か思い悩んでいるようだった。

 僕には弟が何を思い、考えているのかは理解出来なかった。

 だが何かを決心したように弟は、博士を見て言った。


「博士。僕にもその幸福バランサーの修理作業、手伝わせてください」

 僕も博士も大臣も、弟のその言葉を聞いて、コーヒーを吹きこぼしそうになった。

 そして慌てた様子で大臣は言った。


「いやいや危険過ぎる! それに君はまだ、さっきの処置でふらふらではないか」


「いえ、大丈夫です。僕のせいで……僕のせいでこんなことになったんです! 何かしないと、気が済まないんです。だから――」

 大臣は思い詰めたように、口をつぐむ。

 博士もどうしたものかと考えている。

 弟は昔からたまに見せる、とても頑固な一面がある。

 そして、もう弟がこうなってはどうしようも手を付けられない。

 仕方ない――僕は決心する。

 修理の手は多ければ、それだけ早く済む。


「よし。じゃあ弟にも、修理作業を手伝って貰いましょう――」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る