第25話 忍び寄る黒い影

「なるほどなぁ、じゃあ何とか急いで入国せねばならんのじゃな」

「はい、そうなんです。ただ、今の入国審査待ちの混雑状況だと、僕はあと3日ほどはここで立ち往生ですが……」

「ふむ……そうか。しかしわしの番号札ならば、あと数時間もかかるまい。君よりもとても若い番号じゃからな」


 そう言っておじいさんは番号札を僕に見せてくれた。それは確かに随分と若い番号だった。


「どうじゃ、宿の宿泊権利とわしの番号札、交換してはくれんかの。なにぶんこの老いぼれには休息が必要なのじゃ」


 願ってもない交換条件に、僕は歓喜した。

 いつ死神の追手がやってくるかわからない状況で、長時間同じ場所に滞在するのは、とても不安で気が気でなかった僕には、それは願ったり叶ったりな話だった。


「ありがとうございます!是非お願いします!部屋は8階層の8241号室です」


 僕は老人と番号札を交換し、ルームキーを差し出した。


「いやいや、これはわしらの縁がもたらした幸運じゃよ。こちらこそありがとう」

「少年、礼を言う……。ご老公、早速部屋で休ませて貰いましょう……」

「あ、僕の連れもそろそろ戻る頃だと思うので、部屋までご一緒しますよ」




 僕らはレトロなエレベーターで、部屋のある8階層に向かった。

 エレベーターが8の数字でポーンと音を鳴らし、扉がガチャガチャと音を立て開いた。

 その開いた扉の先の通路を、こっちに向かって無心に走ってくる猫の紳士の姿があった。


「に、逃げろっ! 扉を閉めるのだっ!!」


 猫の紳士の叫び声に反応し、おじいさんの隣にいた猫の案内人は咄嗟とっさに『閉』のボタンを連打した。

 猫の紳士は死神だと思われる黒い猫に追われていた。

 その先にいた僕を見つけた死神の猫は、鋭い眼光で睨みつけ敵意を剥き出しにしているようだった。

 猫の紳士は飛び掛かってきた死神の猫をひらりとかわし、間もなく扉が閉まろうとしたエレベーターに滑り込んできた。

 だがしかし、猫の紳士の足は無残にも短く距離が足りない……!

 僕は即座に猫の紳士の足を引っ張り、扉が閉まるわずか寸前でエレベーター内に引きずり込んだ。


 チーン!


 その音と共にエレベーターが下降を始めた。間一髪だ。

 状況を察して気を利かしてくれたのか、猫の案内人は1層へ降りるボタンを既に押してくれていたのだ。

 あまりに突然の出来事で、猫の紳士の白いシルクハットは、いつの間にやら脱げてしまったようで、8階層の通路に置き去りにしてしまったようだ。

 身だしなみに人一倍気をかけていた猫の紳士も、さすがにそんなことに構っていられるか。というような様子だった。


「ぜぇ……はぁ……」


 何か吐き出してしまいそうな表情で息を弾ませる猫の紳士を見て、猫の案内人は何かに気づいたらしく、情けない声で言った。


「も、もしや、貴方は……、は、伯爵ではありませんか!?」

「はぁ……ひぃ……、はぁ……、何だ……、君は……」


 猫の紳士は息を落ち着かせるようにして、ちらりと猫の案内人の方を見た。


「私です……。伯爵。……貴方の従士です」


 猫の案内人は少しだけ目を潤ませて、猫の紳士に向かってビッと敬礼のようなしぐさをした。


「えっ、君たちは知り合いなのかい?」

「ほっほっほ。すごい巡り合わせもあるもんじゃな」


 猫の案内人はじゅるりと鼻をすすり、そんな僕とおじいさんの言葉を制すように、すっと冷静な表情に切り替えて言った。


「しかし、今は再会に喜んでいる暇もなさそうですね。既に外は包囲されている可能性も……」


 やっと息が落ち着きを見せた猫の紳士は、彼を見て少し安堵の笑みをこぼした。


「ふぅ……久しいな。ミルクでもたしなみながら同郷を懐かしみたいところだが」


 猫の紳士は降り行くエレベーターの階層表示を確認しながら言った。


「しかし君の言う通り、既に奴らはわたしどもの部屋を嗅ぎつけていたようだ。待ち伏せされていた。おかげでスーツと合わせてあつらえたわたしのシルクハットが犠牲になった……」

「死神どもに追われてるというお話、先ほど少年から伺いました。とにかく関所に逃げ込めば、奴らは正式な許可なく立ち入ることは出来ないはず。ここは私にお任せください」


 すると猫の案内人は、おじいさんの荷物と一緒に抱えていた大きめの袋に手を入れ、何かを取り出した。

 またたびだ。オレンジ色のパッケージにはっきりとそう書いてある。


「ぐぬぅぅぅ、貴様ァ! それを早くしまいたまえェ!」

「はっ、これは大変失礼しました伯爵!」

「うわぁすごい匂いだ、君は平気なの?」

「私は特殊な鍛錬を積んだ身。またたび爆弾には耐性がある。これを奴らに食らわせてやる」

「しかし君の伯爵は、どうやら効果抜群のようだね……」

「ぁぁあ、ぐぬぅぅ……」

「ふむ、どうやら別れを惜しむ暇もなさそうじゃな……。そろそろ1階層に到着じゃ。この老いぼれはおぬしらの無事を祈ることしかできぬが……」


 そう言うとおじいさんは、別れを惜しむように僕を抱きしめた後、その手で僕の背中をとんとんと優しく叩いた。


 ポーン!


 音を鳴らしたエレベーターは1の数字を表示し、ガチャガチャと扉が開いた。

 宿の正面玄関に十数匹の黒猫達。印象的なその風貌。そう、死神の猫だ。


「さぁ、裏口へ!」


 猫の案内人の合図で、僕と猫の紳士は走り出した。

 おじいさんはドドドっと迫りくる死神の猫の群れに向かって、近場にある掃除道具のようなものを投げつけた。

 それをひょいひょい交わす黒い死神の猫に向かって、猫の案内人はまたたび爆弾を叩きつけるように投げた。


「んゃぁぁあああぁああ!」

「なぁあああ、んなぁあああぁ!」


 死神の猫たちは一斉に叫び声を上げ、その場にうずくまり悶え、中には狂ったように転げ回るものもいた。

 おじいさんと猫の案内人に最後の別れをアイコンタクトで交わし、僕と猫の紳士は裏口を飛び出した。

 裏通りを一気に駆け抜けていく僕達。目指す関所までの道のりはそう遠くはない。

 少しずつ遠ざかる背後から、黒猫たちのまるで我を失ったかのような悲鳴が轟いていた。

 猫の紳士は直撃こそしなかったものの、またたび爆弾の影響なのか鼻を赤くしており、じゅるじゅると透明な汁を垂らしていた。

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