第238話 別種の来訪者
少女の押し殺した苦鳴が漏れる。布製の
無抵抗の少女に振るわれるのは、水で濡らした革製の鞭。あえて中途半端な長さに調整されているため、派手な音を立てる割には威力が低い。
衣服の上から打たれていることもあり、皮膚が裂けるようなことも無いが、繰り返し打ち据えられた背中は腫れ上がり、数日間は悶え苦しむ夜を過ごすことになるだろう。
少女を打ち据えているのは少女と良く似た印象の女。それもそのはず、女は少女の実母である。正しくは少女が女に似ているのだ。
我が子に暴力を振るう女の目には仇敵に対するような憎悪があり、口元には嗜虐による笑みすら浮かんでいた。我が子を想う母の情など一片たりとも見受けられない。
彼女たちが攫われてきた当初は、互いに互いを庇い合うような仲の良い親子だったと言われても、到底信じられない光景が繰り広げられていた。
「そこまで。その娘に課された罰は『鞭打ち20回』、ルールは絶対だ」
尚も鞭を振り上げる母親に向かって、感情を感じさせない静かな男の声が告げる。
熱に浮かされたようになっていた女は、雷にでも打たれたかと見紛う劇的な反応をしてみせた。即ち飛び退るように娘から離れると、鞭を持ったまま地面に平伏する。
「刑の執行ご苦労だった。お前には一日の自由時間が与えられる。隣室で自由に過ごすが良い」
男の声に促され、母親は振り返ることなく足早に隣室へと立ち去った。
男は床で丸くなり痛みに耐える少女に対して、事務的に言い放った。
「娘よ、逃亡を試みるのは自由だが、失敗には常にペナルティが付き纏う。お前たちは常に誰かから見られていると言う事を忘れてはいけない」
男は娘に声を掛けながら拘束具を外していく。
娘は男が口にする逃亡を推奨するような台詞を訝しみつつも、何故自分が失敗したかを悟って母に対する憎悪を募らせた。
男は別に母親が密告したなどと言ってはいないのだが、人は自分が信じたい事を真実だと思い込む傾向がある。
無論男は娘が誤解するように思考を誘導し、互いに憎しみ合うまでに関係性を破壊したのだ。男の手にかかれば、親子の情などと言う物は、いとも容易く壊れてしまう。
「娘よ、誰かの不正を見かけたら私に報告しなさい。そうすれば君に刑の執行権と一日の自由時間を与えよう」
体を
男は決して嘘を口にしない。自分に不都合であっても口に出したならば絶対に履行してきた。故に娘も男が嘘をつくなどと夢にも思わない。
そして今回の刑の執行役が母であった事と結び付けて、彼女が密告者であるという事を真実だと思い込んだ。
心理学を学び、その理論を実践し、研鑽を重ねてきた男からすれば、純朴な異世界の人間などいとも容易く操れた。
娘が震える足で男の部屋から退出すると、男は研究机に向かって得られたデータを書き込んでいく。
この館の支配者たる男の名前は
男は幼い頃から父による絶対的な支配と、母親による陰湿な暴力を受けて育った。共産党員であった父は、それに誇りを抱いており、朝鮮人である母を物のように扱った。
絶対的強者である父には逆らえない母は、幼い息子にその鬱屈した感情を向けた。家庭を顧みない父と、より弱い自分を虐げる卑劣な母とが幼い彼の世界であった。
この歪な家庭環境故か、それとも彼自身の性向だったのか、男は他者に対する一切の共感を持たない。男の世界は常に自分とそれ以外だけしか存在せず、友人や恋人などという関係性を持ったことは一度としてなかった。
男は六歳にして己を虐げる母の殺害に成功する。周囲を良く観察し、愚鈍な母の行動パターンを知り尽くした上で、粗雑な罠を仕掛けただけの拙い手口だった。
しかし、事件は単なる事故として処理された。父が母親に興味を持っておらず、醜聞を嫌ったため早々に事故とされたのだ。
男はそれを契機に大小様々な事件を起こしつつ成長し、闇社会へと身を投じて、その才能を開花させていった。
端的に言って男には才能があった。特に薬物の取り扱いと拷問に優れた資質を示した。それ故にかつて米軍の秘密部隊に急襲された麻薬カルテルの依頼を受け、カルロスとその家族を拷問した上で殺害する作戦に従事し、失敗して追われる身となった。
男は懸命に逃げ続けたが、三賢人の持つ影響力は巨大であり、己が追い込まれつつあることを自覚していた。
その時、『ミスターC』と名乗る男の代理人が接触してくる。とある男に対する拷問を請け負えば、三賢人の追跡から匿ってやるというものだった。
追い込まれていた男は、その依頼を受けてソノラ砂漠での実験に紛れ込み、異世界転移の事故に巻き込まれることとなる。
男と『ミスターC』から与えられた部下数名は、空間に異常が発生した際に影響範囲から逃亡すべく、虹色に変化しつつあった空間から外側に向けて飛び出した。
それが悪影響を及ぼしたのか、男とその部下数名はシュウ達と比較して10年前の異世界大陸へと飛ばされた。
彼らは地球から持ち込んだ現代の武装と、その知識を以て山賊となり、小さな村を支配するに至った。
男は闇社会で培った知識を活かし、現地に自生していたケシの花を村人たちに栽培させ、阿片を作り出した。
幸いにもガイアに自生していたケシは葉が平たくて分厚い、阿片の原料に適した品種であったため、それを利用して薬物依存症に陥らせ、隣村をも影響下に置いた。
宰相であった領主がそれを知り、鎮圧に聖騎士の動員を決意する頃には、複数の村を傘下に収める一大麻薬組織となっていた。
しかし、ここは異世界。地球とは勝手が違った。楽園教の聖騎士による襲撃を受け、男は虜囚の身となった。
意外にも彼らの利用価値を認めたのは、その襲撃者たる楽園教だった。阿片が齎す鎮痛剤としての効能はもちろん、麻薬としての依存症を高く評価し、ヒエロニムス宰相公爵の配下として取り込んだ。
彼らはそこで引き続き麻薬栽培に取り組み、阿片を公爵や楽園教へと供給する組織となり、男はそこでも薬物の知識で頭角を示して成り上がっていった。
そして王位の簒奪を目論んだグレゴリウス枢機卿の企みが潰え、男は状況が悪い方へと転がり出した事を自覚していた。
このまま楽園教の連中に付き合っていては、いずれ訪れる破滅に飲み込まれる。そもそもが麻薬組織などというものは短期的に収益を上げるためのものであり、長期的に見れば破綻するのが目に見えている。
男は共倒れを防ぐため、グレゴリウス枢機卿を出し抜くタイミングを見計らっていた。
「小強! 枢機卿猊下がお呼びだ、妙に兵士が殺気立っているから、穏やかな用事じゃなさそうだ」
「そうか。すぐに向かうと伝えてくれ」
小強は机から立ち上がり、身支度を整えると迎えの馬車に乗り込んだ。
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