最終話 黒き帳 3/8
クロスの言葉にエルデは慌ててその視線をエイルに移した。
「心配はいらないよ。君が炎精に対して秘密にしておきたい事柄は、炎精の耳には届いていないさ。彼は全くもって完璧に意識を失ったままだ。それともこのまま永遠に意識を失ってもらった方がいいのであれば、お望み通りにしておこうか」
「それはあかん」
エルデはクロスをにらみ据えると、怒鳴るようにそう言った。だが次の瞬間には視線を逸らして弱々しい声でこう付け加えた。
「お願いや。ウチ以外のみんなは、そのまま帰してやって欲しい」
「ふむ。君の今の言葉、こう解釈してもいいという事だね? すなわち君はその状態でここに留まる事を望む、と。まあ、僕としてはそちらをおすすめするけどね。」
エルデはうなずいた。そこにはもはや一瞬の迷いもなかった。
「みんなを無事に解放してくれるんやったら、ウチはその約束を守る」
「約束。約束ねえ。なるほど。それは見せかけの生を引き延ばそうとする気持ちに終止符を打つことを決断したという事かな?」
「何とでも思ったらええ」
「それとも君が望むなら、炎精をここに留めてもいいんだよ」
「それは」
エルデはそう言うと、次に続く言葉を探すかのようにいったん言葉を切った。
「それはウチの望みとはちょっと違うんや」
「ふむ。まあいいだろう。自己制御に不安がある炎精を野に放つのは四聖の端くれとしては少々気になるけれど、まあ、私はもはや四聖であって四聖ではないのだから、炎精を拘束しないという判断に対しても特に問題を見つける事は無理というものだ」
ここまでの会話でクロスの口調には怒気や悪意がない事を確信したエルデは、心に浮かんだ素直な思いを言葉に載せる事にためらいは感じなかった。
「それから、もう一つだけ頼みがある」
エルデの口調からトゲのような敵意が消失した事はクロスにも伝わったに違いない。他者のエーテルをあたりまえのように見る事ができる亜神なのだから。ましてやエルデはクロスとは違い、自らのエーテルの状態をごまかす術をまだ会得していない。クロスはエルデのそういう亜神としての未熟振りなど先刻承知のはずなのだ。つまり、エルデの気持ちはクロスには見えているという事になる。
クロスはほんの少しだけ沈黙を挟んだが、すぐに答えた。
「そう言えば解呪を施したいアルヴの娘がいるんだったね。セッカから聞いているよ。そもそも君達がここに来た目的がその事だと私もちゃんと理解はしているさ。いいとも。そっちは引き受けよう。わざわざこの私に会うためにはるばる海を渡ってきてくれた同胞の頼みだ。断るわけにはいくまいよ」
エルデはクロスのその言葉を聞いて目を閉じ、安堵の短いため息をつき、そしてつぶやいた。
「おおきに」
「礼には及ばないよ。何故ならば私が行う解呪が、そのアルヴの娘にとって必ずしも幸福な結末になるとは限らないのだから」
どう言う意味だ、とエルデが尋ねるよりも速く、クロスが言葉を続けた。
「ダメだよ、すぐに敵意をむき出しにしては。君はそう、三〇〇〇年前のあの場面から全然成長していないようだね」
あの場面という言葉が、エルデの脳にある記憶回路を活性化させた。
夢で出会った記憶の中にある父や母、ラ=レイの姉妹であるラウネリアとエルデールトリート、そして金色の目を持つクロネコ、リ=ルッカの姿。それらがスッと浮かんできては、すぐにぼんやりと薄くなっていき、やがて黒い背景に溶け消えた。
エルデはそんな一瞬の回想劇を見て、ハッとした。ある事に気付いたのだ。それは余りに当たり前すぎて気付くも気付かぬもないような些細な事実、いや「違い」であった。
「セッカ・リ=ルッカ」
予想もしていなかった名前がエルデの口から漏れたのを聞いて、クロスは少し眉根を寄せてエルデを見つめた。
「なあ?」
「今度は何だい?」
「セッカとリ=ルッカはどうなったんや?」
聞かなくてもわかる。胸に三日月型の白い模様の毛が生えたクロネコがこの時代に生き延びているわけはない。エルデは金色の目を持つリ=ルッカの事は知っているが、空色の目を持つセッカと直接出会ってはいない。
だがクロスは二匹の猫を両方とも知っているはずであった。そうでなければ自ら作り出したあの怪しいエーテル体にセッカ・リ=ルッカなどという名前を付けるはずがない。だがエルデの問いかけは二匹の猫が実際にどうなったかを知りたいわけではなかった。エルデが知りたかったのは、ご丁寧に左右の目の色を空色と金色にわざわざ分けてまで、セッカとリ=ルッカを「話し相手」として作り上げたクロスの心理、いや気持ちであった。
そもそもエルデの記憶の中の少年クロスと、今の青年のクロスとでは言葉遣いも性格も違っているように思えるのだ。夢の中でエルデの母親である先代の【白き翼】ことレティナ・エイミイに対していた心臓まで冷え切ってしまうほど怜悧な表情と言葉を持つクロスと、今こうしてここにいる、理屈っぽいところはともかく、その穏やかな話しぶりだけをみると、どうにも誠実そうな青年にしか見えないのだ。
亜神は嘘をつけない。いや、つかない。少なくとも同じ種である亜神相手に虚偽の言葉を用いる事は無いと考えていい。たとえそれが忌み嫌うクロス・アイリスであろうと自他共に認める「法の番人」であるイオス・オシュティーフェであろうと。そもそもその大前提があってこその亜神との駆け引きなのである。ここを疑っては何もかもが不確かなものに堕してしまう。
つまりティアナの解呪は間違いなく行われると考えるべきであろう。
だが二つ返事で請負ながらも、クロスは忠告を口にした。そしておそらくそれは他意のない、つまりクロスなりの親切心からの警告なのだろう。
だがエルデが問題にしているのはそこである。
クロス・アイリスはいったい何がしたいのだろうか?
当初、エルデが知りたかったのはセッカを使って巧妙な手段で自分達を「ここ」までおびき寄せたネッフル湖の解呪士と名乗る亜神、【黒き帳(とばり)】ことクロス・アイリスが果たして敵かそうでないかという、単純な事だった。
敵。
言葉にすると簡単だが実の所その定義は無限にある。
単純に自分の生命を脅かそうとしたり、思想や行動の制限を課そうとする者を筆頭に、自分ではなく、大切な人や仲間の生命や行動を損なおうとする者、自らが属する組織と敵対する組織に属する者はもちろん、卑近な例を挙げれば同業の他者、要するに商売敵などは敵として極めてわかりやすい存在だろう。
ではクロスはどうか?
何の前触れもなくいきなり行動の自由を奪う行為はもちろん敵とみなすには充分な理由にはなる。
だが視点を変えるとそうではなくなる。つまりエルデがすっかり「人」の世界の価値観に染まってしまったからクロスのとった行動が敵対的なものだと思うだけであり、亜神の価値観では「誰にも妨げられずに会話をするもっとも合理的な手段」でしかないのだ。何しろエルデ自身が、かつてそうした手段を何のためらいもなく執っていたのだから。
だが、だからこそエルデはクロスに対して違和感を持つに至ったのである。人の情という形のない極めてあやふやで、だからこそ非合理である観念から離れた存在が亜神であり、クロスがその亜神そのものだとすると、あの左右の目の色が違う黒猫の存在をどう説明すればいいのだろう?
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