第八十五話 ネッフル湖の解呪士 4/5

 それを見たニームは唇を噛んだ。エイルに対して「意外に冷静だ」と思うだけならまだしも、あまつさえ「あれほどいちゃついて見せておいて、いざとなると存外冷たい男だな」と少しでも思ってしまった自分の鈍感さ加減に腹を立てたのだ。

「すまぬ」

 だからそんな言葉が、無意識に口から出ていた。

 反応したエイルが怪訝な表情で声の主を見上げると、そこには不機嫌そうな顔をしてそっぽを向いたニームがいた。

「独り言だ。それよりそこの化け猫」

 ニームはあからさまに話題を転じた。

「この期に及んでまだその名前で呼ばれるのは心外だな」

「呼び方などどうでもいい。あとどのくらいでその解呪士とやらに会えるのだ?」

 そう言ってニームはいったん言葉を切ると、チラリとテンリーゼンを見やった。

「ここにしばらく留まるべきか、私か風のエレメンタルが先行して、助けを求めた方がいいのか判断がつきかねる」

「テンリーゼン、だ」

 抑揚のない声でテンリーゼンがそう言った。

「リーゼ、でいい。私を、風のエレメンタルと、呼ぶな」

「そ、そうか」

 意外なところから話の腰を折られて、ニームは戸惑った。テンリーゼンとまともな会話をした事がなかった事もある。

「同じだ」

 テンリーゼンは続けてそう言った。

「え?」

 言葉、いや会話の意味が即座には理解出来なかったニームは問い直す格好になった。そこには多分にセッカとの大事な会話を遮られた苛立ちの色が含まれていたが、テンリーゼンはそんな事はお構いなしに、同じ事を繰り返した。

「同じ」

「な、何がだ?」

「セッカ・リルッカ」

「なぜ今、その名前が出てくる?」

 やや攻撃的な色あいの言葉が反射的に口をついた。だが自分で投げつけた質問を言い終わる瞬間に、テンリーゼンの言葉の意図が完全に理解できた。

「いや」

 テンリーゼンに再度指摘される事を怖れて、ニームはテンリーゼンの目の前に掌を突き出した。

「そうだな。確かにそうだ。私も『おい、そこのチビ』などとは呼ばれたくはない」

 ニームには、その言葉を聞いたテンリーゼンの表情が少しほころんだように見えた。

「うーん、それは大丈夫じゃない?」

 途切れた会話が再開できると踏んだセッカが口を開いた。

「それとは?」

「ここにはチビが二人いる。だから誰もその言葉で呼びかけないだろうね」

「ふん。背はデュアルの私の方が少し高い」

「五十歩百歩という言葉を知っているかい?」

「背の話はどうでもいい。それよりさっきの質問に答えてくれ、その……セッカ・リ=ルッカ?」

「セッカでいいよ」

「じゃあ、セッカ」

「わかった、回答しよう。答えは『わからない』だ」

「は?」

「結界が切れたところがネッフル湖だよ。でもこの結界がどのくらい続いているのかは私には何ともいえない。というかわからないというのが正しい言い方かな」

「そんな曖昧な」

「さらに付け加えるなら、結界内では実は方角という概念も曖昧だから、先に行くという行為はさほど賢い選択じゃないと思う」

 その答えを聞いたニームは、最初に怒気を、しかし即座に落胆の表情を顔に浮かべた。

「タ=タンの王は考えている事が表情に全部でるからわかりやすくていいね」

 おかしそうにセッカがそう言うと、ニームの表情はまた瞬時に変わった。

「愚か者! 今の状況は決して笑い事ではないのだぞ。私は真剣に打開策を模索しているのだ」

「ごめんごめん。賢者【天色の楔】が意外にも人情家だとわかって、なんとなく嬉しかっただけさ」

「こいつ、またそうやって混ぜっ返す」

「大丈夫だって」

 焦りを怒りの成分に変えてしまっているニームに、セッカはそう言うとのんびりと顔を洗う仕草をした。

 ニームは眉根をさらに上げたが、セッカのその仕草よりも言葉に反応したエイルが先に黒猫に問いかけた。

「大丈夫ってどう言う意味だよ?」

「その通りの意味さ。私達はもう歩く必要はないようだ」

 その場にセッカの言葉の意味が理解出来る者はいなかった。だから誰もが重ねて尋ねようとした。「それはどう言う意味なのか」と。しかし誰一人としてその言葉を口にしなかった。言葉を発する前に、その答えがわかったからだ。

 なぜならその「答え」は一行の目の前に「立って」いたからだ。


 長身の青年。

 いや、少し尖った耳と金髪緑眼。その特徴から判断するとおそらくはアルヴに間違いないだろう。だから長身であることはその男にとって特徴とは言い難い。

 アルヴ族の身体的外見的な特徴を除く、その青年だけが持つ個性としての特徴を敢えて上げるならば、エイル達一行を見下ろしている表情がそれにあたる。

 そこに悪意はない。もちろん一行の誰かに対する殺意などがない事もわかる。だがその表情には絶望的に「表情がない」事が問題であった。

 その目がエイル達を見ているであろう事は間違いない。だがそれは見ている対象に対する興味が、蜘蛛の糸の先端ほども存在していないように思えた。

 アルヴ族特有の整った白い顔は、絶対的な無表情をエイル達に向けていたのだ。

 だが悪意がないとはいえ、こんな特殊な場所にまるで湧いて出たかのように突然現れた人物に心を許せる人間はそういない。当然のように一行は無意識に身構えていた。セッカを除いて。


 見合っていた時間はおそらく一秒もなかったであろう。青年はエイル達の誰かが口を開く前に言葉を発した。

 だがそれはエイルやニームに向けたものではなく、未だ黒猫の姿のままでテンリーゼンの肩に乗っているセッカに対してであった。

「待ちくたびれたよ、セッカ・リ=ルッカ。私がどれくらい待ちくたびれたかを君に理解してもらいたいものだね。だから理解してもらう為にまずはお互いの物差しを揃えようじゃないか。私が待っていた具体的な時間と、それに対応して私の期待が上昇していく率を加えて」

「わかった。とてもよくわかった。何がわかったって、お前さんがいかに待ちくたびれていたのかがよくわかったって事だよ。うん。もちろん私がそうだろうなと予想はしていたわけだし、お前さんがそう思うのは至極当然だと思う。その通りさ。だからまずはこの結界を何とかして欲しいんだけど」

 言葉を途中でセッカに遮られた青年はしかし、不快な表情をいっさい見せずにうなずいた。

「君の言葉にあまり一貫性が認められない点がとても気になるが、とは言えセッカ。過去の君との会話を分析するに、取りあえずは君の意向に沿った方が情報のやりとりが円滑になると判断しよう。それに私もこの状況をできるだけ早期に終了した方がいいと判断しているからね」

 

 青年の言葉が終わるか終わらぬうちに、一行の周りの環境が激変した。それはもう「変化」という言葉では表現不可能なほどの「変化」であった。いや、むしろ言葉が見つからない程の異変といっていいだろう。

 エイルも、テンリーゼンも、そしてニームでさえ「え?」と言ったきり自分の周りで起こった出来事を脳内で処理するのに数秒を要した。

 そして結局処理できずにその青年に疑問をぶつける事しか出来なかった。


「どうなってるんだ?」

 アルヴの青年は、無表情な瞳で質問者であるエイルを少しの間見つめた後、すぐに視線をセッカに向けた。

「この少年の質問の意味がわからないのだが、どうしたものだろうか?」

「結界が解かれたんだ。私達はもうネッフル湖に辿り着いていた、と理解してくれたら面倒がなくて少なくとも私は助かるんだけど」

「つまり、私達は雪原に居るという幻を見せられていた、という事か?」

 セッカの説明にニームがそう確認を取ったが、セッカは少し困ったように首を傾げた。

「うーん。厳密に言えば違うんだけど、ざっくりとそう理解しておいたほうが話を進めやすいかな。というか、仕組みはどうでもいいんじゃない? 大事なのは私達は目的地に辿り着き、右も左もわからない吹きっさらしの雪原で凍死する恐れがなくなった、という事じゃないかな」

「それはそうだが……」

 ニームは納得出来ないといった不満を隠そうともせず、不機嫌な顔をアルヴの青年に向けた。

「それで、お前がその『ネッフル湖の解呪士』とやらなのか?」

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