第八十五話 ネッフル湖の解呪士 2/5

「エアというのは、消費すべきエーテルがない空間。これから向かう所に張られた結界は、そのエーテル自体を完全に無効化するルーンで覆われている空間。うん。簡単に言うとそんな感じだから、消費すべきエーテルを内包する精霊陣や、エーテルを封じてある杖なんかも当然だけど、つまりフェアリーやエレメンタルも全部ひっくるめてその力は無効化されると思った方がいい」

 セッカの説明にエルデは眉をひそめ、ニームは反論した。

「そんなデタラメな結界があるものか。十二色のうちタ=タンの直系であるコンサーラのこの私ですらそんな結界を張ることは不可能だ」

「うん。まあ、そうだろうね」

 詰め寄るニームに、セッカはにべもなくそう答えた。

「きさまは大賢者の私にできない事がその解呪士とやらにはできると言うのか?」

「うん。それも朝飯前だよ、きっと」

 その答えを聞いて、ニームは眉間に皺を寄せ、目を細めた。

「それはもはや異能者だな。答えよ、化け猫。いったい何者なのだ、そのネッフル湖の解呪士とやらは?」

「だから、ネッフル湖の解呪士、だよ」

「ふざけるな、私はその人物の出自を聞いているのだ。それに解呪士というのは通り名であろう? であれば本当の名前が別にあるはずだ。 『言っても知らないだろう?』という言い訳はなしだ。こう見えて私はファランドールの族名は古今東西漏れなく網羅している。本人を知らぬとも、族名さえわかれば使うルーンの推測もそれなりにはつく。そもそもそんなデタラメな結界を張れる力を持つルーナーを排出したという一族を私は知らんがな」


「悪いけど」

 眉を吊り上げて噛みつくニームに、セッカは肩をすくめて見せた。

「それは強く禁じられてるんだ。私はあの人の僕みたいな存在だからね。命令には逆らえないよ。でも……」

「でも?」

「直接聞けば、そういう質問には多分喜んで答えてくれると思うよ」

「喜んで、だと?」

「まあ、私が言うのも変だけど、あの人はちょっと変わってるんだ。変わっているというか、壊れているというか、ああ、でも狂人とかそう言うのではないよ。基本的には機嫌のいい人なんだよ。周りにいる野生動物とは仲が良いしね。ただし一方的にだけど。少なくとも招いた客人を歓迎する事については保証するよ。もっとも」

 セッカはそこでいったん言葉を切ると、エイルとエルデに顔を向けた。

「そちらの願いを素直に承諾するかどうかまでは私にはわからないけどね」

 その言葉でニームは口をつぐんだ。エイルかエルデが反応すると思ったのだろう。エイルは隣のエルデを見たが、エルデは目を伏せており、セッカを見てはいなかった。

「オレ達はどちらにしろ、会って頼むしかないんだ。それもできるだけ早く」

「だね」

 エイルの言葉にセッカはうなずくと、大きなあくびをした。

「だからさっさと準備を済ませて出発しようよ」

 ニームはエイル達とセッカを交互に見つめると、小さなため息をついた。そしてそれ以上セッカに質問はせず、今度はおとなしく防寒着の物色をはじめた。


 背嚢から毛皮のコートと、厚手の手袋、そして長靴を引きずり出すようにして取り出すと、ニームは黙ってそれらを装着した。

 手袋と長靴は内側が毛で覆われた毛皮仕様で、防水のために表は特殊な薬剤を含んだ蝋が塗り込められていた。毛皮のコートもそうだが、どれもこれも店ではもっとも高価な防寒具であった。手袋は薄手のしなやかな皮を二重にし、内側は毛皮仕様のものであったし、長靴は四重に重ね縫いしたもので、皮と皮の間にはびっしりと毛皮が詰まっている。また縫い目同士が重ならないように縫製には気を遣われており、さらに縫い目という縫い目にはこちらも蝋の化合剤が塗り込められていた。そしてその上からはご丁寧ににかわに似た接着剤で保護されていた。素人目にも防水対策は万全な良品にみえる製品である。

 だから値段もいわゆる「目の玉が飛び出るような」価格であったが、ニームは顔色一つ変えずに、隠しから大振りの金貨を無造作に取り出し、それを見てびっくりする店主に「釣りは要らぬ」とお大尽な台詞を吐いて衣料店を後にしたのである。


「なあ、あの金貨って」

 エイルはニームが取り出した金貨には見覚えがあった。

「せやな」

 エルデはうなずく。そして自分の鳩尾あたりに手を置いた。そこに財布が入っている事をエイルは知っていた。

「同じエスタリア金貨、か」

「なあ」

「何や?」

「今、なんか閃いたんだけどさ、ひょっとしてオレ達って、こうやって出会うように誘導されてる?」

「誰に?」

「誰にって……そこまではわからないけど、ミリアってヤツとか、そうだな、後はイオスとか」

「そうやな」

 エルデは珍しく少し考える仕草をして、そして独り言のようにつぶやいた。

「ネッフル湖の解呪士」

「え?」

「イオスは策を弄するっちゅう性格やないと思う。ニームの件も目的を言わへんかっただけで誘導とかそういうものやなかったやろ?」

「確かにそうだな」

「ミリアはイオスがニームを断罪するとか考えてなかったはずやと思う。それにリーゼの件を考えるとあいつもイオスと似た感じなんやないかな」

「言われてみればそうだな。誘導というのとは違うな」

「その上で誰かが誘導してるんやとしたら、どう考えてもネッフル湖の解呪士が怪しいとしか言えへんやろ?」

「でも、まさか」

 エイルはそういいながらも、それが軽い冗談や憶測ではなくエルデが真剣にそう考えているのだろうと直感した。そんな声の響きだったのだ。

 妙に落ち着いていて、そして突き放したような物言い。

 表情は暗い。エイルに対して滅多に見せないその表情で、エルデ・ヴァイスは着雪した山を見上げていた。


 その日は天気がいいとは言えなかった。そもそも山の天気など変わりやすいものだ。下界の天気がいくらよくても雲の上の事はわからない。セッカの「大丈夫、結界だから」というわかったようなわからぬような言葉を信じて、一行は難所を前に休憩を取っていた。

 着雪だけでなく、難所である理由があった。そこには登山道などというものが全く存在していないだけではなく、着雪した部分に辿り着く為にはいわゆる断崖と呼ばれる所をよじ登る必要があったからだ。しかしそれはあくまでも普通の人間が言うところの「難所」であって、エルデやニームといった高位のルーナーにとっては断崖絶壁自体は難所にならない。もちろんルーンが使えるからだ。エルデにいたってはそもそも人間と身の軽さの次元が違っていた。

 すうっと跳躍したかと思うと、目指す「とっかかり」を片手で掴む。と、思う間もなく今度は腕力に任せて体をまた上方へ浮遊させる。それはまるで上昇気流で舞い上がる羽根にも似た軽やかさであった。

 ニームはニームで結布に何やら描き込んだかと思うとそれを左右の長靴に巻き、所々にある大きな窪みめがけて一気に大きな跳躍をして見せた。

 テンリーゼンはというと、風のフェアリー、いや風のエレメンタルの面目躍如とも言うべき特技で断崖を飛ぶように歩いていた。いや、走っていた。重力を無視し、足の裏に断崖を貼り付け……いや、つまり重力を無視するかのように体を地面とほとんど平行にして文字通り断崖を駆け抜けていたのだ。少なくともエイルにはそう見えた。

 エイルの推測では局地的な強い上昇気流を連続的に発生させ、それを背中で受けながら、断崖を跳躍しているのだと思われた。もともと身が軽い風のフェアリーである。強い上昇気流を利用すれば、そのような芸当もできるのであろう。

 セッカは……要するに猫だった。

 つるつるの壁ならいざ知らず、自然界にある岩の断崖など難所でも何でもないといった風に、軽快に駆け上がっていた。

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