第八十話 ナットニース戦役 5/6
「こんな事を聞くのは自分でも馬鹿馬鹿しいとは思いますし、今さらなのですが」
「なんだ、どうした?」
「陛下の兄上には……弱点というか、我々がつけいる隙などはないのでしょうか?」
「弱点っつうか、天敵はいるらしいぞ」
エスカはあっさりとそう答えた。
「天敵、ですか」
エスカはうなずいた。
「勘違いすんなよ。亭主がカミさんに頭が上がらないとか、そういう比喩的なものじゃねえ。文字通りの天敵だ」
「ほう、それは……」
「言っとくが、それが誰なのか……いや、何なのかは俺も知らねえよ。それらしいことを聞いたことがあるってだけだ。お前さんも知っての通り、バカ兄貴は表に出ず隠れてこそこそやってる。だからたぶん天敵の話は本当の事だろうと俺は思っている。誰か知らないけど、間違っても『ソイツ』に見つかりたくないんだろうさ」
「なるほど」
グラニィはエスカの言う事を素直に受けとることが出来た。「バカ殿」の振りをして決して持っている力の片鱗すら表に出さない事もそうだが、グラニィはそもそもミリアには「滅びの匂い」を感じていたのだ。長く士官をやっていれば、多くの兵を見る事になる。自らの命を大事にしない者特有の匂いがわかるようになっていた。
グラニィの知るその匂いは二種類ある。死にたがっている者の匂いと、死を覚悟している者の匂いだ。両者は同じようでいて全く違う。ミリアに感じるのは後者なのだ。
だからこそあの圧倒的な力を見せられた後でも、グラニィはミリアに揺るがぬ強大な力が持つ圧倒的な存在感を感じる事ができなかったのである。むしろ時間が経てば立つほど、あの会見の時に見たミリアの笑顔には砂上の楼閣のような儚さが付きまとう気がしてならなかった。
「そんな事より、せっかく『こっち側』に来たんだ。不本意かもしれんがヘルルーガの力になってもらうぞ」
エスカの言葉にグラニィは丁寧な敬礼で応えた。
「不本意どころかシルフィードの高潔な将官の麾下に入れるのは私にとっては光栄の極みです」
「ならよかった」
「もっともあまり芝居は得意な方ではないので、夕べは一晩中稽古をしておりました。この先の本番ではなんとか形にしてみせましょう」
エスカはグラニィが実際に稽古をしている様子を想像したのか、返事の代わりに小さく吹き出してみせた。
「笑い事ではありません」
「いやあ、悪りぃ。だったら期待しているぜ。十万人の制御はゲイツ『大佐』のその芝居にかかっていると言っても過言じゃねえんだからな」
「今のところは『少佐』です。この芝居が上手くいったら、その時は約定通り『大佐』を名乗らせてもらいましょう」
「噂通りの堅物だな。そのドライアド軍人らしからぬ真面目さは、今後ヘルルーガの大いなる救いになるだろうな」
「カネになると思ってここに馳せ参じた時点で、とても真面目とは言えませんがね」
「そうか? 少なくとも正直者じゃねえか」
エスカはそういうとマントを翻し、ヘルルーガの後を追うように歩き出した。グラニィは小さく笑うとその後に続いた。
そしてそのグラニィの後には、百名程度のドライアドの軍服を着た兵隊がそれぞれ槍を手にした完全武装で続いていた。
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「ナットニースの湖に浮かぶドライアド軍の全兵士に次ぐ」
エスカ達の到着を待っていたかのように、ヘルルーガが眼下の水面に向かってそう呼びかけた。風のフェアリーによる音声拡声が施されているおかげで、その声は広大な湖の隅々まで届いた。
「我が名はヘルルーガ・ベーレント。シルフィード王国軍陸軍の中将である。貴君等に無条件降伏を勧告する」
十万人の兵達がその一言でどよめいた。ドライアド軍の中にも、名将ベーレントの名を知る者が多い事もあり、兵達の何割かは自分達が敗北した事は「相手が悪かったのだ」と思ったことであろう。
ヘルルーガはどよめきが静まるのを待たずに続けた。
「武器と鎧を水中に放棄し、無条件降伏に応じる者はベーレント中将の名にかけて、すなわちアルヴ族の矜持に賭けて、その命を保証する事を約束しよう」
いったん静まったざわめきは、またもや大きくなった。ヘルルーガのいう「命の保証」とやらの信憑性をお互いに探り合っているのであろう。
「敢えて言うまでも無い。諸君等は全員がもはや戦闘不能状態である。それでも戦うというのであれば最後まで残るがいい。お望みの結末が待っている事だろう。だが考えろ。我々は戦争はしているが、それは兵に対する憎しみと同意ではない。戦闘に勝つ事は重要だが、諸君等の命を奪う事が我が軍の目的ではないのだ。この会戦に置いて我々シルフィード王国軍は勝利した。諸君等が武装を解き、我が軍の指揮に従うのであれば、国際条約に則った捕虜待遇はもちろん、衣食住の保証は確実に行う事を、これもまた我がアルヴ族の矜持にかけて約束しよう」
ここでヘルルーガは一拍入れ、口調を変えて続けた。
「なに、心配には及ばぬ。諸君等十万人が証人だ。デュナン主体であるドライアド国民の諸君も、我々アルヴ族の国シルフィード人の気質は聞き及んでおろう? 諸君等十万人に加え、我が軍五千人の前で中将の肩書きを持つ者が約束を違えるなど歴史を振り返ってもあり得ぬ事だ。安心するがいい」
ヘルルーガはそこまでしゃべった後で、はじめて振り返った。そしてそこにグラニィ・ゲイツの姿を認めた。
ヘルルーガと視線が合ったグラニィはその場で片膝を付いて見せた。それを見たヘルルーガは微かに目を伏せ、それに応じた。実はそれが両者にとっては初めての顔合わせであったのだが、エスカを通じてではあるが互いの事をよく知っている間柄のような気になっていた。少なくともヘルルーガはグラニィの顔を見て不安が頭をもたげる事は無く、グラニィは自分でも驚くほど自然に最敬礼が出来たと思っていた。つまり彼は一目でヘルルーガを「器」として認めたのである。
ヘルルーガは視線を湖の水面に戻した。
「とは言え、我が軍は礼を失するのをよしとしているわけではない。すなわちまずは指揮官に問いかけたい。いずこに居られる?」
もとより降伏要請などはまずは指揮官に対して行うのが筋であろう。ヘルルーガがそうしなかったのはもちろん「わざと」である。
指揮官の退路を断った上で、形式上の花を持たせようとしたのである。ヘルルーガが命の保証どころか衣食住……中でもこの場合に重要なのは食であろうと思われるが……その充分な条件提示の後で、彼らの指揮官がそれを断ろうものなら、ドライアド軍の司令官や高級将校などは間違いなく味方の兵に命を奪われる事になったであろう。
要するにフラウト王国としては指揮官が承諾しようが断ろうが結果として全軍が無条件降伏をすることには変わりは無い。ならばより断りにくい状況を作る方が無駄な流血を回避する事に繋がると踏んだのだ。
これはエスカの作戦ではなく、ヘルルーガの戦術であった。
自らの作戦の成功を疑っていなかったヘルルーガだが、そこは凡百の指揮官ではない。駄目を押す事も忘れていなかった。ヘルルーガが堅実な武将であるとされるゆえんであろう。
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