第七十一話 ワイアード・ソルの再会 6/6

 アプリリアージェの言うとおりに作戦が決行されていたら、この時点で自分がこの世に存在しない事は自明であった。運良く逃げ延びたとしても、この場所でこうして居ることはありえないだろう。

「サーリセルカ少佐。貴様はこれだけの軍を今まで率いた経験は?」

 トランは首を横に振った。

 もちろんあるわけがなかった。今まではせいぜい大隊の指揮を執った程度なのだ。旅団長など想像すらした事がなかった。

「しかし」

 トランはしかし食い下がった。

「斥候を出して、これら都市国家から出陣の気配がない事を確認した上で挟撃にも耐えうるよう、いくつかに分散し、間隔を空けて進軍いたしました」

 言いながら嫌な汗が背中を伝うのを自覚していた。もちろん、それが意味するところも。

「各都市国家の軍隊は、ドライアドの招集に応じ、それぞれ指定された戦線に赴いた可能性も……」

「エレメンタルの伝説が本当だとすると、この地は極めて重要だ。その可能性があるかぎり、そんな地域を丸腰にするはずはない。抜け目のない五大老ならばなおさらだ」

 ティルトールはアプリリアージェの指摘を理解していた。そしてその次に何を告げるのかをも。

「今この時点で、これらの国に斥候を出してご覧なさい。周辺の都市国家が丸腰かどうかがわかりますよ。つまり事が始まったとたん、この軍の補給路は全て断たれるということです」

 トランには返す言葉がなかった。自らの経験のなさと浅考が浮き彫りにされたのだ。いや、それよりも何よりもトラン・サーリセルカもアプリリアージェの言いたい事がほぼわかってしまったのである。それはトランの立場では決して考えてはならぬ状況であった。

「見たところほとんどが王国軍の陸軍部隊のようだが、幕僚に近衛軍の人間はいないのか?」

「います」

 ティルトールの意図をすでに理解していたトランは、そう言うと額の汗を拭った。

「幕僚に二人、ミドオーバ大元帥よりお預かりした人間が」

「リリア、さすがにこれは」

 トランの答えに気色ばんだティルトールを、アプリリアージェはにっこりと笑って制した。

「大丈夫です。近くには誰も居ませんよ。イヴォーク少佐は優秀な人払いです」

「佐官を人払いの専門家のように言うな」

 落ち着いているアプリリアージェを見て、ティルトールは激した自らを押さえる事に成功した。

「今幕僚の招集を行っても、たぶんその二人は欠席でしょう」

 アプリリアージェはそういうと地図の街道をすっとなぞった。止まった人差し指の先は、ワイアード・ソルに最も近い都市国家を差していた。

「彼らは私の姿を見た時点で、泡を食ってここに向かっているところでしょう。『死に神が出た!』と知らせる為にね」


 アプリリアージェは地図から顔を上げ、トランを見つめた。

「さて、どうします?」

「どう、とは?」

「あらあら、皆まで言わせるのですか? ここでティルと闘い、消耗した所を見計らって背後から責めてくるドライアド軍に全滅させられる事を望みますか? それとも」

「そ、それとも」

「私の配下として、有意義な死を選ぶか、ですね」

 一瞬明るい表情になったと思ったトランは、すぐにその顔に青さを取り戻した。

「どちらにしろ、私は死ぬんですか」

「全滅させる為にわざわざ組織された軍隊の愚かな司令官として歴史にその名を残すか、勝っても負けても結果とて英雄という名誉の称号を得て死ぬかですから、同じ死ぬにしても全然違いますよ。それに……」

 アプリリアージェはまるで楽しい事を告げるように言葉を継いだ。

「私の敵になるよりは、私と一緒に戦う方が断然面白い事は保証します」


 トラン・サーリセルカは悩んだ。

 当然であろう。

 今まで自分では見えていなかった戦局、いや俯瞰した世界というものを初めて見せられたのだ。アプリリアージェの言葉を素直に呑み込めば、自分達の軍隊の立ち位置は明確だった。

 だが、もしそうであったならサミュエル・ミドオーバが敵になる。エッダ軍として「反逆者」であるノッダ軍と戦う為にここまでやってきたトランである。総司令官を任されてはいるが、いきなり「ノッダ軍に寝返る」と言って全軍が従うだろうか? 誇り高いアルヴ族のみで構成された軍隊だ。己の信じるものを捨て敵を信じろ、しかもその敵の配下に入れと上官が命じたとしても、むしろ「はいそうですか」と素直にその命に従う者の方が少なく思えた。なぜなら自分が兵の立場に立ったとしたら絶対にそう思うからだ。


「リリア」

 トランが答えを口にしないまま短い沈黙があったが、それをあっさり破ったのはトランではなくティルトールだった。

「これは大軍を預かる将としての問いだ」

 そう言うティルトールの口調は固かった。

 アプリリアージェはそれに対してもまったく表情を変えず、ティルトールの目をまっすぐに見つめて首を傾げて見せた。

「何なりと」

「細かい事はいい。俺は根本的な事を確認しておきたい」

「はい」

「お前の戦略に我らが乗ったとして、再編成された軍隊はノッダ軍か?」

 アプリリアージェは微笑を深くした。

「さすがは中将。いえ、ティルらしい、いい質問です」

「お前はさっきから『私の軍隊』と言っていたが、それがノッダ軍とも正規軍とも、ましてやシルフィード軍という言葉すら使っていない」

 ティルトールの言葉に、トランもハッとした顔でアプリリアージェを改めて見つめた。

「まさかとは思うが、このどさくさに乗じてユグセル公爵家がサラマンダやウンディーネの一部を支配しようなどと考えているのではあるまいな?」

「あははは」

 アプリリアージェは声を出しておかしそうに笑うと上機嫌な声で即答した。

「お察しの通り、私の軍はシルフィード軍ではありません。ですが大陸支配をしようなどと考えた事もありませんよ。私は自分の事をよく知っているつもりです。その上で敢えていいますが、私は国の経営には向いてません。少なくとも女王の器ではありませんよ。ただ戦争にはけっこう向いている人間なのです」

 ティルトールとてアプリリアージェの事はよく知っているつもりであった。だから答えをある程度は予想していたのだろう。

「シルフィードではなく、あえて第三勢力を名乗る目的を答えろ。意図を教えろ。そもそも我々だけで何が出来るというのだ?」

 そう。アプリリアージェが敢えてノッダ軍やシルフィード軍を名乗らぬ意図の一部はティルトールにも推測はできた。シルフィード軍を名乗らぬ方が戦いやすい場面があるからだ。

 だがそうなるといきなり現実的な話にならざるを得ない。

「たかだか数万人の勢力で、補給もなくこの先どう戦うのだ? これから補給路確保の闘いを繰り広げるとでもいうのか? 言っておくがオレ達の背後はシルフィード軍の補給経路があり、トランの背後はお前の推測だとドライアドの大軍がいるのだぞ?」

 ティルトールの言葉にもアプリリアージェは一切動じず、紅茶が注がれているカップを持ち上げて、底に溜まった蜂蜜色の液体をぐるぐると回した。

「紅茶も呑めないような闘いを、私がするとでも?」

「思うものか。だからその辺がどうなっているのか先に種明かしをしろと言っている」

「そうですね」

 いたずらっぽい顔で笑うと、アプリリアージェは広げられたサラマンダ大陸の地図のある地点を指さした。

 そこは北方の海岸線付近で、ワイアード・ソルと街道で繋がる有名な港湾都市であった。

「ここが我が軍の拠点となります」

 ティルトールとトランは顔を見合わせた。

 それもそのはず、その都市国家は実質的にドライアド海軍の為だけにある、ようするにドライアドの完全支配下に置かれた軍事都市だったからだ。

「シドンだぞ?」

「ええ」

 アプリリアージェは事も無げに答えると続けた。

「私の計算だと、一週間以内にここは陥落します」

「まさか俺達に落とせと言うのではあるまいな?」

「途中でも色々とめんどくさい事をこなしていかねばなりませんし、いくら私やティルがいようと、わずか数日であの城塞都市を陥落させるのは不可能ですね」

「ふーむ」

 ティルトールはアプリリアージェが指さすシドンという名の城塞都市の場所をまじまじと見つめた後、その視線をゆっくりと上げた。

「いるのだな?」

 アプリリアージェはこれにも素直にうなずいた。

「います」

「シルフィード軍……ではないのだな?」

「もちろん」

「どこの軍だ?」

「あらあら、だから言っているじゃないですか、私の軍だと」

 アプリリアージェはそう言うと、空になったカップを持ち上げてトランに紅茶のお代わりを頼んだ。

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