第六十二話 アプリリアージェの決心 1/4
物語の時間を少し巻き戻すことを許して欲しい。
エイル達が迷いの森に踏み込む直前から話を進めたい。
ミリア・ペトルウシュカと出会った翌朝、一行はいつもの朝と同じように食堂で朝食を終えると、それぞれの飲み物をゆったりと口にしていた。
それは人生でも五本の指に入るであろう気分の悪い出会いをした翌朝とは思えぬほど平穏で、要するに一見すると拍子抜けするほどに普通の朝であった。
アプリリアージェは紅茶を一口すすっていったんカップを口から離すと、微笑を深くして改めて残りの紅茶を楽しんだ。
エイルとエルデは珈琲だった。最近はさすがに飽きたのか、アプリリアージェから泥水論議を吹っかけられる事も無くなっていた。
セッカと言えば黒ネコの姿のままでアプリリアージェの膝の上で丸まって食後のお茶を楽しんでいる三人が次の行動に移るのを待っていた。
端から見ればなんの異常もない普通の風景に見える三人だが、実のところそのテーブルが昨日の朝とは全く違う雰囲気に支配されている事をセッカだけは感じていた。その髭の先がひりひりと振るえて止まらないほどには。
違いというのはアプリリアージェが今朝はまだ一言もしゃべっていない事である。二人が飲む珈琲を泥水だと言い、それにエルデが「この味はお子ちゃまにはわからへん」と返す、いつもの様式美とも言えるやりとりがないわけはそういうことであった。
ふてくされているわけではない。アプリリアージェが機嫌が悪いようには見えないからだ。すがすがしくにこやかな笑顔は普段のままのアプリリアージェだ。いや、普段以上ににこやかと言っていいだろう。年頃の青年が今のアプリリアージェを不用意に見つめようものなら、その蕩けそうな表情に釘付けになり、一瞬で心を奪われる事は必定……それほど素晴らしい微笑を浮かべていたのである。
エイルはアプリリアージェの心の内がよくわからなかった。だがミリアに対するアプリリアージェの態度が「普通」でないことだけはわかっていた。同じ経験を共有したエルデと比較すれば明白だ。時間の経過と共に敵意がどんどん高まっていくエルデに対して、アプリリアージェからはそれが一切感じられなかったのだ。
考えられる理由は一つ。
二人の間には何かがある。
エイルはそう思わざるを得なかった。
物的な証拠はない。だが状況証拠ならある。それは二人の間で交わされたいくつかの微妙なやりとりだ。お互いにお互いを知っているからこそ成り立つ会話である可能性が極めて高い。
そしてもちろん、束縛が消えた後でエイルはその事をアプリリアージェに尋ねた。だがアプリリアージェは即座に頭を振ってそれを否定した。そしてその後すぐに、呼び止めるエルデを無視して自室に引き揚げていった。エイルとエルデ、そしてセッカはそれ以降、アプリリアージェの言葉を耳にしていない。
エイルは隣にいるエルデの様子をうかがった。
大振りのカップにたっぷり入った黒っぽい液体を一口ずつ口に含みながら、エルデはじっと視線を絡ませようとしないアプリリアージェを見つめていた。いや、軽く睨んでいると言った方がいいだろう。
実のところエルデには味覚がないのだから、わざわざ嗜好品である珈琲を選ぶ必要はない。紅茶でもいいし、温かい飲み物がいいのであればただの白湯(さゆ)でいい。エルデはつまり、エイルが選ぶものと同じものを自分でも口にしたいと思っているのであろう。アプリリアージェはそれを知っていて、二人の仲の良さ、いやこの場合はエルデのエイルに対する思いをアプリリアージェ一流のやり方でからかって楽しんでいるのだ。
だがそんなエルデは今、エイルよりもアプリリアージェに意識のほとんどを集中していた。エイルに対する感情とは種類は違うが、同じ方向性のある思いをアプリリアージェに対して感じているからこその行動だといえる。
昨夜のエルデは、あの後……拘束が解けた後に軽い混乱に陥った。エイルにしがみついてただ震えていたのだ。どんな言葉をかけてもただ首を横に振るだけだった。エイルの胸に顔を埋め、その腰をぎゅっと抱きしめて。
アプリリアージェがエルデのその様子を見て無言でその場を立ち去ろうとした時に「待て」と一言声をかけたが、それが無視されるとそれ以上の深追いはしなかった。寂しそうに目を伏せると自分達も休もうと言ったきり、後はひたすらエイルを求め続けた。
周りが明るくなってから、エイルの腕の中でようやく落ち着いたエルデが漏らした一言は、エイルにある決心を固めさせた。
「一応確認しますけど」
カップの中身が空になったのが合図かのように、エイルはアプリリアージェに声をかけた。
「リリアさんはオレ達と一緒に行きますよね?」
夕べから一言も発しなかったアプリリアージェだが、まるでエイルのその一言を待っていたかのようにあっけなく口を開いた。
ただし、それはエイルの問いかけに対する答えではなかった。
「一つだけ確認させて下さい」
アプリリアージェはそう言うと、エイルよりも早く飲み干していた紅茶のカップに未練がましい視線を注いだ。
「エイル君に質問です」
「質問?」
「ええ」
アプリリアージェはうなずくと、実に楽しそうににっこりと笑いかけた。
「私が頼んだら、あなたは見ず知らずの人を切れますか?」
エイルは絶句した。
もちろんアプリリアージェの言葉の意味はわかった上で、それでも即答できなかった。
「エルデ」
アプリリアージェはエイルの答えを待たずに、今度はその隣に寄り添う瞳髪黒色の妻に声をかけた。
「あなたの夫は兵士としては、完膚なきまでに全然ダメですね」
質問を投げてから間はあいていない。せいぜい一呼吸ほどだ。だがアプリリアージェにとってはエイルが即答しかかったことが充分な答えであったのだろう。
「剣士は居るけど人は切れない。要するに戦闘員は私だけ。しかもたかがダーク・アルヴの女兵士一人。ワインを一樽飲もうが素面だろうが、考えるまでもなくこの三人組では死にに行くようなものですね」
言葉はエイルではなく、エルデに投げられたものだった。いつものエルデならエイルを批難されればすぐに噛みつく所である。だが、その朝のエルデはアプリリアージェの徴発的な言葉を受けて、珍しく目を逸らした。
「誤解のないように言っておきますが」
そんなエルデに一瞥をくれると、真顔になったアプリリアージェが今度はエイルに向かって声をかけた。
「私は行きます。最初からエイル君などあてにはしていませんよ」
「いや、オレ達も」
アプリリアージェは片手を上げると、エイルの言葉を途中で止めた。
「安心して背中を任せられない人間と共に行動はできません。わかりやすく言ったほうがいいですね。要するに足手まといはまっぴらだと言っているんです」
「いや!」
そんな事はないとばかりにエイルは腰のゼプスの柄に手をかけた。「やれる」という意思表示のつもりだった。
だがそれを見たアプリリアージェが真顔を崩して浮かべた笑顔は冷笑だった。
「ウソばっかり」
「ウソじゃない」
「じゃあ、あなたはかわいい女の子が近づいてきても、問答無用でその首をはねられますか? 幼子の場合はどうです?」
「う」
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