第五十二話 エスカの右目 3/5

「なんですって?」

 エスカの言葉に反応したのは、絶句したヘルルーガではなく同席していたライサ=リザレーだった。

 だがそれはきっかけに過ぎなかった。ほんの少しの時間差で、その場の誰もが声を出していたからだ。


 その場の様子を克明に記してそれぞれの心理状態を読み解くのも一興には違いないが、冗長にすぎる。ここではその会見の場で決められた事を箇条書きにまとめるに留めた方が良いだろう。

 すなわち


 一つ、エスカ・ペトルウシュカは、エスタリア領主、ペトルウシュカ公エスカとしてフラウト王国リムル二世の要請により養子となり、皇太子の位に就くこと


 一つ、エスカ・ペトルウシュカは、養子縁組みの前にフラウト王国第四王女ライサ=リザレー・フラウトと婚約の儀を行う事


 一つ、シルフィード王国軍、陸軍少将ヘルルーガ・ベーレントはエスカ・フラウト皇太子の要請に応じ、フラウト王国後宮輿入れの儀を行う事


 一つ、フラウト王国国王リムル二世は、ベーレント部隊全員に対し、フラウト王国の市民権を授与する事


 一つ、フラウト王国第五王女ヒナティーダ=ユーレー・フラウトと、セージ・(リョウガ)・エリギュラスとの婚約の儀を可及的速やかに執り行う事


 これらをすべて、ほぼ一度に、しかもあろう事かその日のうちに執り行う事になったのである。

 もちろん正式な行事としては後日改めて執り行う事になるのだが、とりあえずその日のうちに全ての項目を略儀という形で短く纏めあげ、既成事実とすることとなった。つまり略儀なのは儀式の手順のみであり、内容はあくまでも正儀としての儀式である事が確認された。

 要するに急いで儀式を行いたいが時間的に本式の手順は踏めない。だがあくまでも「本義」である事を示しておきたいということである。


 会見の場で実際にどのような会話がなされたのかは定かではないが、エスカがヘルルーガに対して提示した側室の条件が冗談ではなく本気だと知ったあとのヘルルーガの取り乱し様は、先のクォークの日記の冒頭を読めばそれと知れる。

「文字に記したことで後世に残る可能性があることを考慮すると、ベーレント将軍が築き上げてきた過去の名誉と尊厳を守る為に、既述したものかどうかを数時間もの間逡巡した」

 結局自分が書かなくても誰かが書けば同じだと言う理由で、それこそ微に入り細をうがって文字通り詳述さている。首府にある大図書館規模のものであれば日記の写しはみつかるに違いない。その気があれば調べて見るのもいいだろう。

 要するにヘルルーガはどうあっても断る事ができないエスカの申し出に対し、自分の中でそれを簡単に処理する事ができず、その場では相当な葛藤があったという事である。

 自分の首一つで部隊が助かるのであれば喜んでそうしたに違いない。だが側室になれと言われるとはさすがの名将ベーレント少将と言えど夢にも思っていなかったのであろう。

 それほどエスカが出した条件は唐突で予想不可能なものであったのだ。例え名将の誉れ高いヘルルーガであっても、さすがにその取り乱しようは無理もないと言うしかない。


 当時のヘルルーガ・ベーレントの年齢はエスカの二倍以上で、つまりは相当に年上になる。もちろん純血のアルヴであるから、見た目の年齢はエスカよりもむしろ歳下に見えるほど若々しい娘のようだったとされている。

 だが、それだけの年齢に達しているという事はヘルルーガにもそれなりの歴史があるという意味に他ならない。

 要するにヘルルーガには夫がいたのである。

 ただしその夫は既に他界しており、当時のヘルルーガは独身である事をエスカは情報として知っていた。夫と死別した後は、もともと堅物で通っていたヘルルーガに浮いた噂は全くたたなかった。本人も再婚などは全く考えていなかったようである。

 だが、事もあろうか本人が断る事のできない条件として再婚、しかも小国ながら皇太子の後宮に入る事を迫られたのである。

 反射的に拒絶の言葉が出かかったヘルルーガの口を塞いだのは、自らの使命感であった。その点ではさすがと言うしかない。

 とはいえ、副官であるゾルムスに助け船を求めるような気弱な視線を走らせる幕もあったというが、それも一瞬であった。

 珍しく顔を真っ赤にしたヘルルーガは、エスカの申し出が冗談ではないと知ると小さなうめき声を立て、一度だけテーブルを強く叩いたとある。

 その後、ヘルルーガの口を突いたのはエスカに対する呪詛の言葉であった。

 およそ考えられるありとあらゆる悪口は、相手側ではなく見かねたゾルムスが止めるまで延々と続いたというから、それにはさすがのエスカも顔を引きつらせた事であろう。


 ゾルムスも当初はしばらく口を閉じることができないほど驚きはしたが、ヘルルーガの呪いの言葉を聞き流しているうちにようやく冷静になった。そしてエスカの作戦を改めて吟味してみると、それが極めて効果的なのではないかと考えるようになっていた。

 だからこそ、いつ終わるとも知れぬヘルルーガの呪言に終止符を打たせるべく、申し出を受諾するように進言したのであろう。


 ただ、ゾルムスに誤算、いや勘違いがあったこともまた事実である。

 いや、彼だけではない。

 同席した幕僚も、ヘルルーガ自身も、また会見の決定を告げられたベーレント軍の誰もが、同じ事を考えていたに違いない。

 だが婚儀の翌朝、部隊の前に現れたヘルルーガとエスカの姿を見た誰もが、その時エスカ・ペトルウシュカという人間を完全に読み間違えていたことを悟ったのである。


 ヘルルーガとの婚儀は形式のもの。つまり「表向き」であって、それが双方納得のいく「理由付け」になる方便であると彼らは決めつけていたのだ。

 彼らとはもちろん、その場にいたエスカ以外の全員、である。

 ヘルルーガはたとえ形式であっても、それ自体にも相当な拒否反応を示したくらいであるから、本当に男と女の関係になる事ことなどはあり得ないはずであったのだ。


 だが、翌朝のヘルルーガの様子を見た二四〇〇人のベーレント隊は認めざるを得なかった。

 下世話な言い方をするならば、自分達の司令官が、一夜明けてみれば本当にフラウト王国の皇太子の「女」になってしまったのだという事を。

 

 まずはその日バルコニーに姿を現した時点で彼らは理解した。

 そこに居るのは昨日までのベーレント将軍ではないことを。


「し、将軍が化粧をされている」

「ばか、落ち着け。あれは別人だ。多少似てはいるが、さすがにあれでは俺より若い」

「落ち着くのはお前だ。将軍はもともと俺達よりかなり歳下だろうが」

「静聴しろ」

 上官の叱咤が飛んでも、ざわめきが止むことはなかった。規律正しい事で有名なアルヴの部隊がこれほどまで浮き足立つのは異常と言えた。


 エスカの隣で頬を上気させ、ややもするとうつむきがちになる、つまりは「うぶ」な娘のようにしか見えないベーレント将軍が一歩前にでると、ようやく喧噪は鎮まった。

 そして固唾を呑んで見守る兵達に向かって出た言葉は、なんとも歯切れの悪いものであった。

「あー。なんだ。その、つまりだな」

 そこまで言って、わざとらしい咳払いで一拍をおいた。そして天を仰いでため息をつくと、意を決したかのようにこう告げた。

「我が矜持にかけてこれだけは報告しておかねばならぬ」


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