第四十九話 蛇の目(じゃのめ) 1/4
エルデの叫び声が、エイルの耳に悲鳴として届いた。そしてそれはエイルがずっと感じていた違和感に対する悲痛な回答に思えた。
ニームとの戦いに際して、エルデからはもう一つ殺気というか、真剣さのようなものが感じられなかった。違和感はそこにある。逃げること、避けることは確かに必死であったろう。だがエルデからはニームを攻撃する意思が感じられなかったのだ。
言い方を変えれば、エルデはニームを傷つけたくはなかったのだろう。
エイルにも、今ならその理由がわかる。
エルデはニームが身ごもっている事を知っていたからだ。
おそらくエルミナで最初に出会った時から。
あの時エルデはニームを触診している。アプリリアージェの重い生理痛すら触診で見破れるのだから、妊娠であればエルデにとってはより簡単であろう。
自分は命を失っていたかもしれないような理不尽な攻撃を受けたというのに、エルデはニームを手荒に扱う事を禁じた。それも胎児とその母体を案じたからだ。
本人に自覚がどれほどあるのかはわからないが、エルデ・ヴァイスという存在は、骨の髄までハイレーンなのだと、エイルはその時思い知った。
だが以前のエルデの行動原理を知る者にとって、それは劇的な変化とも言えた。エイルが出会った当時のエルデに、今のエルデの姿を見せたら何と言うだろう?
いや。
エイルは心の中で首を横に振った。
エルデの本質はまったく変わっていないのかもしれない。
あの時もエルデはエイルの事を第一に考えていたのではなかったか?
エルデに問えば「自分の体を取り戻す為にエイルを利用していただけ」とうそぶくかもしれない。だがもう、そうでないことはわかっている。宿主とはいえ、ただ利用するだけの相手に、自分の本当の名前を付けたりするだろうか? 自分の大切な本名を付ける事で、得体の知れない相手を好きになろうとしたのではないのか?
いや、それも違うかもしれない。
そもそも人間に本質などあるのだろうか。あったとして、その本質とやらはずっと不変のものなのだろうか?
たぶんそれは違う。
本質があろうとなかろうと、エルデも、そしてエイル自身も2年前から確実に変わっているはずなのだ。そして2年前のエルデも今のエルデも、どちらもエイルにとっては唯一のエルデ・ヴァイスではないのか。
昔や今の差など意味はない。今を生きているものにとっては今のこの「心」だけが本質といえるものなのではないか?
そう。生きてさえいれば。
ニームの処刑が行われた直後にもかかわらず、エイルはなぜかそんな事を考えていた。
「くっ」
美しい顔を歪ませて拳を握り締めるエルデは、ほとんど言葉の形を作り上げていた音を無理矢理に呑み込んだ。
もちろん納得したのではない。
(納得などするものか)
エルデはこれ以上イオスと言葉をかわす事が無駄だと判断しただけであった。だから胸の怒りをぶつけるより行動することを選んだのだ。憤懣をまき散らす事で気持ちは軽くなるかもしれない。だがエルデの望みはそれではない。願いは別のところにあるのだから。
気持ちは行動に表れていた。いつも呼び出す三色の精杖ではなく、エルデが呼び出したのは白い精杖スクルドであった。
エルデの憤怒の形相にも、その怒号にも眉一つ動かさなかったイオスの表情が、エルデが突き出した精杖を一目見ると、劇的に崩れた。
眉を寄せたのだ。それは明らかに驚いた表情であった。
だが。
いや。
違う。
イオスはエルデの態度に驚いたのではなかった。その訳は、エイルもすぐに知る事になった。イオスはエルデではなく、その後ろのニームに視線を向けていたのだ。
イオスの視線を追ったエイルは、ニームの状況が変化しているのを認めた。
四本の剣に貫かれたままのニームの体が、ぼうっと発光していた。それに反してその周りの空間は光を失っていた。
言葉にすると奇妙だが、エイルにはそうとしか見えなかったのだ。
ニームを中心として、二つの筒が同心円状に存在していたと想像すればわかりやすいかもしれない。そのうち、内側、すなわちニームを中心に体全体を囲むような格好で光の筒があった。そしてその外側に、一回り大きな真っ暗な円柱が伸びていた。まるで内側の円柱から発せられた光が、外側の円柱に切り取られたような格好だ。
エイルは息を呑んでその奇怪な光景を見つめていた。
その現象は、イオスによって引き起こされたわけではなさそうだった。当惑したようなイオスの表情でそれはすぐにわかる。それよりもエイルはそんな表情をしたイオスを初めて見て、心がざわつくのを感じた。
しかし、ニームにいったい何が起こっているのかをじっくりと考える時間は誰にもなかった。
ニームの体を貫いていた四本の剣は光に蝕まれるように消えた。そして外側の筒状の闇が、内側の筒状の光をあっと言う間に呑み込み、そしてその後は何事もなかったかのようにその闇の部分も消失した。それは時間にしてわずか十数秒の出来事であった。
異様な現象が収まった後、その場にあった変化はまさに劇的と言っていいものだった。
そこに在るべきニームの姿がないのだ。
まるで闇の筒に飲まれたかのように、忽然とその姿を消していたのである。
「なるほど、これが『蛇の目』か」
ニームが消滅した数秒後にイオスが独り言のようにそうつぶやいた。
だが、その言葉の意味を知るものは、イオス以外には誰もいなかった。
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