第四十八話 雨。時々絶望 5/7
「お前は正教会関係者ではないのか?」
ニームはエイルの問いには答えず、全く違う質問を投げてきた。
エイルが答えを探し出すのを待たず、ニームはすぐに自らの質問を取り下げた。
「まあいい。私の正体を知ってなお、お前呼ばわりする者が正教会にいるとは思えんしな」
「そうだな」
エイルは歯切れの悪い返事をした。
厳密に言えばエイルは正教会とは全く無関係ではない。連れ合いであるエルデが正教会の賢者、いや四聖の一人である限り、無関係だとは誰も認めはしないだろう。
「私はタ=タン族の男と三聖【深紅の綺羅】との間に生まれたデュアルだそうだ」
「『そうだ』?」
「私自身に母親の記憶は全くない。だからそう教えられても半信半疑だったが、その後血の照合をして、まず間違いないと確信した」
「そうか」
エイルはニームの背中を押さえつけていた手をそっと離した。
「正直に言うが、オレはお前の母親の顔だけは知ってる。ただし、初めて会った時は既に【深紅の綺羅】は死んでいたんだ。証拠はない。だが信じろ」
エイルはニームにそう声をかけた。
ニームはそれには何も反応しなかった。
エイルはニームの顔から視線を外すとラウに目で合図を送った。ジナイーダの動きを開放しろという合図のつもりであった。ラウはそれに小さく頷いた。
エイルは視線をニームに戻した。
見下ろす焦げ茶色の髪の少女からは、もう全くと言っていいほど敵意を感じなかった。そこにいたのは、肩をふるわせながら新たに流れ出した涙で床を塗らす、頼りない小さな「女の子」であった。
エイルは自分の体の本来の持ち主が、【深紅の綺羅】の子である可能性を思い出していた。ピクシィの男とデュナンの姿をした亜神との間の子である。もちろんニームのように「血の照合」とやらをしたわけではない。状況証拠から導き出した可能性の話だ。
だからいったん開き駆けた口を、エイルはゆっくりと閉ざした。
「ニームさま」
拘束を解かれたジナイーダはまっすぐにニームのもとへ駆けよってきた。
いったんエイルと視線を交わし、エイルがうなずくのを待って、俯せのままにされていたニームを抱き上げた。
しかしニームはそれに抗った。
この期に及んで……とエイルは一瞬身構えたが、よく見れば何の事はない、ただ泣き顔を見られたくなかっただけのようであった。
「ほらほら。ニーム様は泣くとすぐにお顔がグチャグチャになるんですから」
ジナイーダが手拭きを取り出すのを見て、ニームは観念したようだった。それでもエイルには顔を見られたくないのだろう。ジーナに拭いてもらいつつも、顔は背けていた。
「一六歳と嘘をつくくらいなら、十六歳っぽくして下さい。今のニーム様は十歳程度ですよ」
顔を背けているニームを呆れ声で叱ると、ジナイーダはエイルにチラリと会釈をしてみせた。
それが何の意味かは計りかねた。ニームを怒りにまかせて手にかけなかった事に対しての感謝なのかもしれなかったが、それについてはむしろ感謝されるいわれはなかった。アプリリアージェが止めなければ、エイルはあの時、間違いなくニームの細い首めがけてゼプスを振り下ろしていたはずだったからだ。
そんな事を考えていると、ポツンと……小さな質量を持つ、それでいて固さのない何かが頭にあたった。
同時に床のあちこちに点々と黒い斑点が生まれていった。
雨だ。
エイルに続き、落ちてくる粒の正体に皆が気付いた時であった。
「誰が嘘をついていたんだい?」
その一言に、その場の全員が虚を突かれた。
気配は一切無く、当然ながら何の前触れもなく、少年の静かな声がその場に居た全員の耳に届いた。
エイルはその声に聞き覚えがあった。
自分の記憶を確認する為に、エイルは雨粒が落ちてくる先に顔を向けた。
少年は空中に浮いていた。
青っぽい僧服を身に纏い、青白い鉱物質の精杖を手にした髪の短いアルヴィンの少年。
エイルは声だけで無く、その少年の顔にも見覚えがあった。
いや、その場に居た全員がその少年の正体を知っていたと言うべきであろう。
「イオス・オシュティーフェ」
【蒼穹の台】ではなく、エイルは少年の持つ現名を口にした。
名を呼ばれたイオスはエイルに一瞥をくれたが、すぐに視線をジナイーダに戻した。
「見(まみ)えるのは初めてだね、【薄鈍の階(うすにびのきざはし)】 顔を覚えておくとしよう」
名を呼ばれたジナイーダは思わず頭を下げた。
「恐悦至極に存じます」
一同は雨とともに現れた正教会の頂上を成す人物の、その登場の意味を計りかねていた。
そこへぐらりと地面が揺れた。
それはもう何度目かになる余震で、体を支えるべくエイルは無意識に視線を足下に向けた。
エイルはしかし、そこで妙なものを目にした。
(雨が……当たっていない?)
視線を下に向けたところ、そこはニームとジナイーダが居るところだったが、ニームには雨がかかっていないのだ。よく見ればぼんやりと光る膜のようなものに覆われていて、そこで雨が弾けている。
エイルと同じく、その事に気付いたのであろう。イオスがニームに声をかけた。
「君は興味深い力を持っているようだな、【天色の楔】」
エイルは言葉の主を振り仰いだ。よく見ればイオスも雨に濡れていない。
つまり、見た目だけで判断するならば、イオスとニームは同じ力を持っているという事になる。そしてそれはおそらくルーンではない。少なくともニームは今、ルーンを使えないのだ。
だとすると……。
エイルはそれが「血」の持つ力なのではないかと考えた。
イオスは亜神。そしてニームは同じく亜神である【深紅の綺羅】の肉親である。「血」を受け継いでいるのだ。
だが、そこで矛盾が顔を出してくる。
同じ亜神であるエルデは雨を避けられない。
いや……。そもそも亜神と人との間にできた子は亜神の特徴を受け継がないのではなかったか? だが、ニームはアルヴィンというよりはアルヴィンに極めて近いデュナンだ。エルデの言葉を信じるならば、ニームは完全なアルヴィンの姿であるはずなのだ。
エルデならば何か知っているかもしれない。エイルはそう考えたが、そのエルデはまだエイルの意識に入り込んでこない。
「なるほど。呪具か。哀れな……」
ニームがまだ何も答えないうちに、イオスはそう言って納得した様子を見せた。視線の先にはニームの首飾りがあった。
「では話を元に戻そう。大賢者【天色の楔】が嘘をついたというのは本当なのかい?」
エイルはイオスの言葉の意味を計りかねた。年齢詐称、しかも背伸びにもならない見栄である。そこにイオスが固執する理由があるのだろうか?
ジナイーダは自分が口にした「嘘」という言葉をイオスが重く受け止めているらしい事に戸惑いを感じたに違いない。すぐにその言い訳をしようとしたが、イオスはそれを許さなかった。
「黙れ」
それはエイルが最初に出会った時に感じた、感情が存在しないぞっとするような声だった。深淵というものが言葉をしゃべるとしたら、きっとこんな声なのではないか……そう思わせるような響きであった。
その一言でジナイーダは言葉を封じられた。
そう。エイルは思い出した。一行は既にイオスの「神の空間」に取りこまれているのだ。ここではもう、イオスの命令は言葉通りに遂行されてしまう。
既にその事を知っているアプリリアージェとファルケンハインにも緊張が走るのがわかった。
イオスの意図がわからないまま、緊張で顔を強ばらせるニームのすぐ側に、イオスが音もなく近づいた。落下するように垂直に移動すると、ニームの横でピタリと止まったのだ。だがそれでもまだ空中に浮いていた。
イオスは手にした青白い精杖を、少しだけニームの側に向けた。
「君も答えを口にする必要は無い」
それはニームに対しての言葉であった。
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