第四十三話 邂逅の知らせ 1/4
客席のざわめきが、楽屋まで響いていた。
楽屋と言っても、そもそも会場の裏にある簡易なテントだから、遮音性などは皆無といっていい。言い換えると楽屋の中の声も外に筒抜けと言える。
だが、いくつかある楽屋のうち、一つだけは外からは何一つ音が聞こえず、まるで誰も居ないかのように妙にひっそりしていた。
勿論、そのテントが遮音ルーンによって外に声が漏れないようになっている事を知る人間はいない。
ルーンを使った当人と、その事を知るわずかな人間だけである。
「どうした? いつも以上に浮かぬ顔だな」
そのわずかな人間のうちの一人、いや精霊陣を張った張本人が、音も立てずに楽屋に入ってきた人物にそう声をかけた。
「背中を向けたままで私の表情がわかるとは恐れ入ったな。さすがは大賢者様だ」
答えた声はしかし、言葉通りの感嘆を込めたものではなく、批難の色を濃く宿していた。嫌味と言った方が適切かもしれない。
「えっと……いつも浮かぬ顔をしている、ってところは指摘しなくていいのかな?」
これは第三の人物の言葉だ。
最初に言葉を交わした二人の間に流れる不穏な空気を和らげようとして咄嗟に口から出た言葉だったが、言った瞬間に後悔していた。
煽ったようなものだからだ。
「ごめんなさい。皮肉を言ったわけじゃないのよ? ただ、ホラ、これから楽しい舞台だし、みんなにもその、楽しい雰囲気で見て欲しいなーって思って、咄嗟に……。ごめんなさい」
踊り子の派手な舞台衣装に身を包んだエコー・サライエは、そう言って頭を下げた。
「姉さんが謝ることはないんじゃないのかな」
同じく踊り子の衣装に身を包んだ明るい金髪の美しい少女がそう言った。
「カノンの言う通りだ。シーレンは私が手に持っているものを確認してからさっきの台詞を言うべきかどうかを考えるべきだったのだ」
ニーム・タ=タンはそう言うと、シーレン・メイベルに背中を向けたままで、手にしていた手鏡を掲げて見せた。シーレンは手鏡の中にニームの茶色い目を見つけると、それに向かってあからさまに渋い顔をして見せた。
「それで?」
何をしているのか、というシーレンの問いかけだったが、それは今現在の状況に対する問いではなかった。「なぜ?」という原因を尋ねる言葉であった。
ニームはエコーに化粧をしてもらっていた。
自分の化粧を終えたエコーが、口紅すらしていない素顔のニームを前にして突然化粧をさせろと懇願したのが原因であり、今はその最中だったのだ。いや、既にほとんど完成していて、エコーと二人で仕上がり具合を吟味中、というところにシーレンが現れたのである。
「そのまま大賢者だと名乗って人々の前に出て、ありがたい説教でもすれば、信者がけっこう増えるだろうな、とは思うぞ」
「それはほめているのか? 侮辱しているのか?」
「ほめてるんですよ。だってホラ、こんなに綺麗なんだから。ホラホラ」
またもや二人の間に見えない緊張の糸が張られた気がしたエコーは、慌ててそう言うと、自分が持っていた手鏡をニームの前に差し出した。
「自分ではないようで、なんとなく落ち着かんのだが……」
鏡に映った自分の顔をみたニームが、エコーに答えてはにかむような声でそう言うと、シーレンが小さく吹き出した。
「なんだ、大賢者さまともあろうお方が、化粧一つで一人前に照れているのか?」
「だからそんな事は言っちゃダメですって!」
エコーは事あるごとにけんか腰になる二人に、思わず我を忘れて小さな怒りをぶつけた。
勿論、即座に後悔が襲ってきた。
「す、すみません。私ったらなんて偉そうな事を……」
だからすぐにそう誤ると、深々と頭を下げた。その拍子に髪飾りが一つ、ずり落ちた。あっと思う間もなく、それは地面に落ちて……。
「あ」
いや、落ちなかった。
エコー自身は咄嗟に手も出せないような極々短い間に、なんとシーレンが髪飾りを受け止めていた。
思わず顔を上げてシーレンを見ると、丁度目の前で長い三つ編みがゆっくりと弧を描いて重力に従い降りてくるところであった。
「お前が謝ることはない。そもそもこのチビが突っかかって来なければ、私は常にドライアドのような慈愛に満ちた微笑みを浮かべている人間だと言われている」
「誰がチビだと? アルヴィンのお前に言われたくないわ! というか、誰に言われているんだ?」
「とりあえず黙れ、偽デュナン」
「に、偽だと?」
「偽でないなら、まがい物か?」
「はいはい。そこまでです」
日常ともいえるニームとシーレンの他愛もない口げんかの仲裁役は、ジナイーダ・イルフランを置いていなかった。
ジナイーダが「そこまで」と言ったとたん、ケンカはほとんど「そこまで」で止まる。言い換えればジナイーダが止めるまでは止まらないのであるが……。
言い争い……エコーから見ても相当に子供っぽい口げんかは、その時もそれでピタリと止んだ。
「それから、カノン。化粧をしたニームさまがいつも以上に愛くるしいからといっても、さすがにちょっと見とれすぎですよ。口が開いたままです」
「え?」
指摘されて、カノナールは慌てて口を閉じた。同時に一気に顔が上気した。
「あんまりニームさまばかりを見ていると、エコーお姉さんがヤキモチを焼きますよ」
「え、いや、私はそんな……」
ジナイーダのからかいに、カノナールは気の毒なほどうろたえた。
「だめだよ、カノン。ニームさまは人妻なんだからね、絶対ダメ」
「な、何がダメなのさ。そんなんじゃないよ」
「顔を真っ赤にしてそんな事を言っても、全然説得力がないわよ」
憤然とした顔のエコーが、眉根を寄せてカノナールをなじった。
「なんだ、ひょっとしてお前は私に懸想しているのか?」
これはニームである。
「はっきり言っておくが、ジーナが言う通り、私はたった一人の男のものだ。婚儀も済んでおる。そういうわけで、残念ながらそもそも私はお前の思いに答える立場にはない」
無表情……そこに何の感情も感じ取れないニームの淡々とした言葉は、しかしカノナールの胸に深く突き刺さった。
「だから関係ないって」
捨て台詞のようにそれだけ言うと、カノナールは先に行くと言ってテントを後にした。
「あちゃー」
声をかけることもできずに、呆然とその後ろ姿を見送ったエコーは、肩をがっくりと落とした。
「さすがに人の心をえぐる術には長けているな、大賢者さま」
嫌味が特盛りになったようなねっとりした言い方でシーレンがそう言うと、ニームは小さいため息でそれに応えた。
「もっとも、今のはあれでいい。褒めてやろう」
シーレンはそう言うと、ニームの小さな肩をポンと叩いた。
「わっかり易い一目惚れだもんねえ」
シーレンから受け取った髪飾りを直しながら、エコーは独り言のようにそうつぶやいた。
「精霊さん、か」
「大丈夫なのか?」
そんなシーレンを横目で見ていたニームは、そう声をかけた。
「さあ。こういうのは初めてですから私からはなんとも……」
「いや、そっちではなくて、舞台の方だ」
「何がです?」
「懐剣投げなど、精神の集中が求められる危険な演目もあるのだろう?」
「ああ、そっちなら大丈夫です。舞台が始まれば、あの子は役にはまり込みますから」
「それならいいが、まあ念のためだ」
ニームは立ち上がるとエコーの前に立った。
「じっとしていろ」
そしてそう言うと、左手をエコーの肩に置いた。そして右手を自分の結布と共に束ねた髪に当て、短いルーンを唱えた。
「エルダーシャス・トゥーン」
「えっと?」
肩に置いた手が離れると、エコーはたずねた。
「何をなさったので?」
エコーにも何かのルーンを施されたのだということはわかる。しかし特に何も感じなかった事もあって、いやだからこそ気になったのだ。
「心配するな。いつも以上に演目が上手くいく、ちょっとしたおまじないだ」
「はあ?」
「なんだ、気に入らないのか? それともカノンを惚れさせるルーンの方が良かったか?」
「え?」
「ニームさま!」
ニームの一言は、エコーを固まらせるルーンとなった。
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