第四十一話 悲しみの向こう側 1/6

 豹変という言葉は、その時のアプリリアージェの行動の為に用意されていたものではないのか?

 ファルケンハイン・レインは、自らが最も信頼する上官の行動を、呆然と見つめながらそんな事を考えていた。

 長くアプリリアージェと行動を共にしていたファルケンファインですら、いま目の前で確かに「そうしている」姿を見た事はなかった。


「何のつもりや!」

 エイルの制止以降、全員が言葉を失っていた。唯一の例外はなきじゃくるティアナであった。

 その喧噪の中に流れる沈黙と言うべき時間を止めたのはエルデであった。

 全員が固まったようになっていたのは、時間にすればほんの十数秒であったろう。だが、ファルケンハインには数分に感じられていた。

 アプリリアージェに投げつけられたエルデの声は、ファルケンハインをして「おや?」と思わせる程穏やかな調子であった。

 違和感を覚えたのはファルケンハインだけではないようで、ラウが珍しく視線を投げてきた。

 曖昧に首を横に振るしか出来なかったが、とりあえず見かけ上はエルデが逆上していない事を知ってほっとしていた。

 ファルケンハインとしても、これ以上仲間が傷つくのを目撃したくはなかった。だが、エルデが本気で動けば、誰であろうと無事では済まないだろう。

 アプリリアージェの動きがいくら速かろうが、一瞬でエルデの息の根を止める事ができなければそこで終わりである。エルデは多彩なルーンを、それこそ一秒もかからずに発動できるルーナーなのだ。しかもただの人間ではない。人間とは膂力にばかばかしいほど差がある亜神という「違う存在」なのだ。体の一部を掴まれたら、そこで戦いは終わるだろう。

 そう、それは懐剣であのスカルモールドと戦うようなものなのだ。


 アプリリアージェの得意技である落雷ではどうか?

 確かに一瞬でエルデに届くかもしれない。

 だがファルケンハインは知っていた。アプリリアージェの落雷は精度を求めると威力が落ちる。亜神の体力がまともなものではないのなら威力を高めるしかない。しかも二度目はないのだから、初弾は最高出力しかないだろう。

 だが、もし仮にそうしたら、間違いなくこの部屋の全員が巻き込まれる事になる。

 ファルケンハインは過去に何度か体験した制御不能なアプリリアージェの落雷暴発事件を思い出していた。

 必至で制御しようとして出力を押さえたものでも、原生林の中にちょっとした広場を形成する程の威力があった。テンリーゼンのエーテルを使った保護層がなければ、木々と同様に炭になっていたに違いない。

 制御しない最大出力など出そうものなら、イオスの屋敷など跡形もなくなるのは間違いない。

 対エルデの為なら周りの犠牲など頓着しないというのであれば、亜神エルデに致命傷を与える事ができるかもしれない。

 強化ルーンを纏っていないエルデの耐性など、ファルケンハインには知りようもなかったが、それでも完璧に勝利できるのかどうかは不明だった。


「ウチの大事な人に、かすり傷一つでも付けてみ。考えられる限りのえげつない呪法とルーンを使て、『頼むから殺してくれ』って懇願するしかないような苦痛を、寿命が尽きるまで味わってもらうさかいな」

 ファルケンハインは思わず唾を飲み込んだ。

 静かな口調であるが、エルデからは明らかな怒気が痛い程伝わってきたからだ。

「要求を聞こか」

 エルデの言葉が続く。

 ファルケンハインはしかし、目の前で繰り広げられている突発的な大事件に、もどかしい程の違和感を覚えていた。

 違和感の根源は、勿論アプリリアージェのとった行動である。

 エルデの「要求」という言葉に集約されるように、その意図を計りかねた。少なくともファルケンハインにその意図はわからなかった。エイルが自らを炎のエレメンタルだと明かした直後の行動であるから、エイルの正体に関係しているのは確かであろう。だが、なぜアプリリアージェが炎のエレメンタルの首筋に懐剣の刃の平地をピタリと密着させているのか?


 それは違和感でなく疑問と言うべきなのだろうが、それでも敢えて違和感と呼ぶべき理由がファルケンハインにはあった。

 なぜなら、彼が知るアプリリアージェは、「そんなこと」はしないからだ。

 そこまで考えてファルケンハインはようやく普段の自分を取り戻しつつある事に気付いた。視覚から得た情報に、知識と記憶が勘合し始めたのだ。

 そう。

 ファルケンハインが知るアプリリアージェは、今までの実戦に於いてああやって人質を取る場合、剣の切っ先なり刃先を頸動脈に当てていた。いや、アプリリアージェに限らない。ファルケンハインでも同様である。高度な訓練を受けているル=キリアの一員であれば、全員がそうするに違いない。それはもう頭で考える行動ではなく、体がそういう動きをする程に鍛えられているのだから、間違いはない。


 そもそもの違和感の発端が理解できれば、あとは状況を再度吟味し直すだけであった。客観的に言って命に関わる窮地に陥ったはずのエイルに重度な動揺が見られない事が第二の違和感である。

 対して違和感が全くなかったのは、事が起こった直後のエルデの驚愕と怒りが混ざったような表情と、同時に纏った精霊波の衝撃的などす黒い空気だけであった事にファルケンハインは思い至った。

 だが、直後にエイルが口にした言葉の後には、そのエルデからも衝動的な陰鬱で破壊的な雰囲気がまったくなくなってしまった。

 そして、口にする言葉の、内容に比して落ち着いた、いや、落ち着きすぎている口調と態度。

 最もわかりやすい反応をしたエルデが、ファルケンハインの違和感の対象に変わるのに時間はほとんど要しなかった。

 つまり……。


 ファルケンハインが得た仮説が正しかったのかどうか。

 自らそれを確かめるべく口を開きかけたファルケンハインはしかし、エルデの求めに応じてその要求を口にしたアプリリアージェによって動きを止められた。

「エイル君をここで失いたくなければ、二人揃ってシルフィード王国軍に荷担して、その力を思う存分使え」

 アプリリアージェは、心なしか力のない声でそう答えたのだ。

 ファルケンハインはさすがに我が耳を疑った。

「いや……」

 毒気を抜かれたのはエルデも同様だったようで、わかりやすい渋い顔をすると、肩を落とした。

「後付けにしても、その台詞はいかがなものやろか?」


 事態を飲み込めているものは、おそらく当事者の三人にファルケンハインを入れた四人だけであったろう。

 まだ泣き止まないティアナは勿論、残りの人間は、無言でただ顔を見合わせるだけだった。

 エルデの態度はもう危機に臨んだものではなくなっている事はなんとなくわかる。だが、それがなぜなのか?

 大した言葉が交わされたわけではない。そもそもアプリリアージェがまともな言葉を発したのは今が初めてのようなものなのだ。

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