第三十九話 二つの碑文 1/6
全員の顔が揃っていた。
それは最近のイオスの屋敷の居間に於いては珍しい事象といえた。少なくともアプリリアージェが自室を出て皆の前に姿を現すことは極めて珍しい事であった。
だが、その日は特別だった。エイルのたっての申し出で、無理矢理アプリリアージェが居間に連れ出されていたからだ。
もちろん、エルミナの市でエイルとエルデが出会った三人組の話をする為である。
一通りの説明はエイルが行った。
その場の雰囲気を敏感に察知したのか、幼児退行によりいつもはうるさくはしゃぐティアナも神妙にしていた。アプリリアージェも長いすに深く座ったまま、その生気のない緑色の顔をエイルに向けていた。それはぼんやりとではあるものの、話を聞いているとも思える様子だった。
「名前は?」
一通りの説明を終えてエイルが口を閉じると、すぐにラウが問いかけた。
エイルは別れ際に名乗り合った相手の名前を告げた。
残念ながらラウもファーンも三人の現名(うつしな)に覚えはない様子で、ほぼ同時に首を横に振った。
しかし、意外なことにファルケンハインがその名前に反応した。冷静な彼には珍しく、椅子を蹴って立ち上がったのだ。その行為が驚きの大きさを如実に表しているといえた。
だが一行の視線はそんなファルケンハインではなく、一斉にアプリリアージェに向けられた。なぜならアプリリアージェが自ら言葉を出して、エイルの言葉に反応したからだ。それには椅子を蹴ったファルケンハインすら驚いた程である。
「もう一度」
アプリリアージェの最初の一言は、つぶやき程度の音量であった。
「え?」
だがエイルが思わず発した言葉に対する二度目の声には、明らかに力があった。
「もう一度アルヴィンの剣士の名前を言ってください」
アプリリアージェの変化に驚くエイルに代わって、エルデがその問いかけに答えた。
「シーレン……そのアルヴィンは確かにそう名乗ったのですね?」
ぼんやりとしたほほえみを浮かべていたアプリリアージェの瞳に、意思が宿るのをエイルは感じた。見かけ上はアプリリアージェの視線がエイル達と絡んだだけなのだが、それはつまり、大きな変化であったのだ。
「シーレンは金髪を……一つの長い三つ編みに編み込んではいませんでしたか?」
エイルとエルデは思わず顔を見合わせると、ほぼ同時にアプリリアージェにうなずき返した。
「ふふふ……」
二人の返事を見ると、アプリリアージェはテーブルに顔を伏せて笑い始めた。
「あははははは」
その場にいた全員があっけにとられていた。
今までのアプリリアージェが嘘のような激しい反応だった。
「リリア姉さん……」
「そのアルヴィンは『金の三つ編み』だ」
アプリリアージェの反応を受けて、ファルケンハインがそう言った。
「え?」
驚いて振り返るエイルに、ファルケンハインはうなずいて見せた。
「ル=キリアだ」
エイルとエルデは、同時にアプリリアージェに顔を向けた。
「シーレンはフリスト小隊の一員です」
アプリリアージェはかなりしっかりした声でそう言うと、ファルケンハインに声をかけた。
「小隊全員が健在だと言っていたフリストの言葉は本当だったようですね」
ファルケンハインは今度は大きくゆっくりとうなずいた。
「しかし、何という巡り合わせでしょうね」
アプリリアージェはそうつぶやくと、頭を少し揺らして額にかかった髪の乱れを直し、ゆっくりとした動作できちんと座り直した。
「ねえ、ファル」
「はい」
「ヴェリーユの地下道でフリストが言っていた情報を覚えていますか?」
「もちろんです」
ファルケンハインはこれにもうなずいた。
「確かフリスト小隊は現在、『主(あるじ)』 と 『あの方』 という二人の人間に従じているはずでしたね」
アプリリアージェはファルケンハインの答えに目を閉じてうなずいた。
アプリリアージェたちがヴェリーユからハイデルーヴェンへと向かった道中の話は、もちろんエイルもエルデも聞かされていた。だから二人の話で、シーレンと名乗った人物の背景がだいたい理解できた。
「あの小柄なデュアル……ニームと名乗っていた高位ルーナーがフリスト達の言う『主』なのか?」
思わず口をついて出たエイルの言葉にアプリリアージェは首を振った。
あなた方の今の話を聞いた限りでは、ニームというルーナーには死者を蘇生できる能力があるとは思えません」
ふむ、とファルケンハインも同調した。
「『あの方』の方でしょうか」
「エイル君、それにエルデ」
「ふむ」
ファルケンハインの問いかけに、アプリリアージェは少し首を傾げてみせると、エルデに向かってたずねた。
「ニームというルーナーから、何か花の香りはしませんでしたか?」
「それは……」
口ごもるエルデの表情を見て、アプリリアージェの微笑が凍りついた。次いでそこに絶望的な表情が広がった。
「ごめんなさい。エイル君に質問すべきでした」
アプリリアージェがこれほどあからさまに戸惑いの表情を見せるのは珍しいことだった。
怪我が癒え、意識を取り戻した後でエルネスティーネとテンリーゼンの訃報を聞いていた時でさえ、悲しいほど穏やかな微笑が、その褐色の顔に張り付いたままだったのだから。
エイルとエルデは、素顔のアプリリアージェを垣間見た気がした。そして確信した。アプリリアージェはもう、自分をしっかりと取り戻しているのだと。
「気にせえへんでもええよ、リリア姉さん」
味覚を自ら封じたエルデは、そう言ってアプリリアージェに優しい微笑みを返した。それもまた珍しい図だと言えるだろう。
だがアプリリアージェが知らぬだけで、エイルはエルデのそんな表情を、もうずっと以前から知っていた。エルデ・ヴァイスと名乗る複雑な背景を持つ瞳髪黒色の娘は、本来そうやって微笑むのだ。
「いや、特別花の香りなんかはしなかったかな。でも、なぜです?」
アプリリアージェはすぐにいつもの微笑を取り戻すと、エイルの答えに小さく首を横に振った。
「いえ、あの地下道が岩盤で閉鎖されたときに、木犀(モクセイ)の香りがしたのです。フリストからはその香りはしませんでした。ですからあの時おそらく現れたのであろうフリストの言う『あの方』とは、女性ではないかと考えただけです」
「香水、もしくは香煙か……」
「あるいは男性が木犀の花束でも持っていたのかもしれません。たいしたことではないので気にしないでください」
もちろんアプリリアージェにも確信などあろうはずはない。ただほんの一瞬だけふわりと鼻先を通り過ぎた香りとともに、人の気配が現れて消えたような気がしたことを思い出したのだ。ニームがその場にいたその気配だけの人物だったかどうか、その可能性の一つを詰めてみただけである。
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