第三十七話 クランとペダン 3/5
エルデがそういう風に屈託無く笑うのは本当に久しぶりだったのだ。そしてこの笑顔をいつまでも見ていたいと、エイルは強く思った。
「ふふふ。確かに『非実用的なグラムコール』って言われて基本的に見向きもされてへんのは確かやな。でも基本文法の中に複数のルーンを混合発動させる仕組みがもともと備わってる唯一のグラムコールやから、使い方によっては……」
「化ける?」
「かもしれへん」
「なんだよ、それ」
「あまりに面倒やから頼まれてもウチは勘弁やけど、勤勉で優秀なルーナーやったらそうとうなもんになる可能性はあるっちゅうか、そんな感じ」
エイルにはエルデの言わんとしている事がわかってきた。エルデはニームというルーナーを相当「買っている」のだ。そしてそんな優秀なルーナーと出会った事が純粋に嬉しいのかもしれない。相手が危険かどうかという判断以前に、クランという「困難なグラムコール」を使いこなしている若いルーナーに興味を持ったのだろう。
そんな事を考えているうちに、エイルはふとある事に気付いた。
「そうか。だからあの時、一回の詠唱でいくつも効果があったのか。だったら普通のグラムコールのルーンを二つ唱えるより、クランを使ったルーンを一回唱える方が速いんじゃないのか?」
「へえ」
エルデが意外そうな顔でエイルを見た。その表情はまさに「感心した」というもので、エイルは思わず視線を外した。勿論照れ隠しである。以前はたとえ感心していてもエルデはそれを絶対にエイルに見せるような事はなかったが、気持ちを交わして以来、エルデは自分の感情を隠す事はしなくなった。だからエルデがエイルに対して感心したような表情を見せるということは、本当に感心しているという事になる。そうなるとエイルはかえって面食らう。落ち着かない気分になるというよりは気恥ずかしくなるのだ。だがそこに嬉しいという成分が混じっている事がエイル自身を混乱させてしまう。ちょっとした事ではあるが、そういったエルデの変わりようにはエイルもまだ慣れないところが多かった。
「オレ、お前にどれだけバカっぽく思われてるんだろうな?」
照れ隠しの為に多少拗ねたような色を言葉に含めてエイルがそう言うと、
「ごめんごめん、そう言う意味やのうて……」
エルデはとたんに不安そうな顔でそう言った。以前ならそんな言い方をすると照れ隠しだと看破されたはずなのだが、今のエルデはエイルの言葉の向こう側を読む余裕すらないと言った反応をする。
「はいはい。だからそんな特殊なグラムコールの使い手なら、素性を特定するのはかえって簡単って事だよな?」
だからエイルはそんなエルデの過剰反応に努めて冷静に対応することにしていた。エルデの不安を煽るような追い打ちはもちろん、エルデの言葉尻を捉えるような事も。
「うーん、それは」
エルデは目を伏せて力なく首を横に振った。その表情、仕草もかつてならば絶対に誰にも見せなかったものだ。誰が見ても弱気がにじみ出ている表情だからである。
だが、今のエルデはそんな姿さえエイルの前では隠そうとしなくなっていた。
以前ならばそんな表情をみせた事を取り上げてからかうところだが、エイルにはそれができなかった。
エルデはおそらく自分自身で気付いているよりも臆病になっているのだ。もちろんその一番の原因はエルネスティーネとテンリーゼンを失った事だろう。そしてエルデにはエイルという「絶対に失ってはならない人」ができてしまった。
守るべき人ができた時、人は強くなるという。しかしエルデは守らねばならないという義務感が生む、失う事の恐怖に冒されてしまっているのだろう。失う事が怖ろしくて、おびえているのだ。守るべきものができたばかりに弱くなってしまう。その典型と言えるだろう。
だからエルデが気弱な表情を見せたり、口に出したりした時には、エイルは努めて会話を事務的なものに誘導する事にしていた。
普通の会話なら、エルデの並外れた聡明さは相変わらずであるし、知恵の海と言っても過言ではないほどの、その膨大な知識がいつも通りに輝くのだ。そしてエルデ自身も感情の揺らぎを収束させ、普段通りエイルと会話を重ねる事ができる。
「クラン系の傍流はいくつもあるけど、クランそのもののグラムコールを使こてる一派とか、ウチは聞いた事無い。専門に研究してる賢者の話も聞かへん」
エルデは敢えて口にしないが、おそらく、いや間違いなくグラムコールの原典あるいはそれに近いものが揃っているのは正教会の内部、具体的には賢者会であろう。エルデにしてもそれらの資料をシグ・ザルカバード経由で「見た」に違いない。現存するほぼ全てのグラムコールを知っていると豪語するエルデである。それは当然のことだと言えた。
そんなエルデが知らないとなると、正教会とシグの個人的な見聞の範囲にはルートであるクランの使い手は認知されていない事になる。
もちろん、若いルーナーに伝承されているという事は、潰えてはいないのは確かである。動かぬ証拠があるのだから。
そもそもクランを習得する為に必要な文献は揃っていて、ルートであるクランを使うつもりならば、そしてそれが賢者会の関係者であれば可能なのだ。
賢者会の関係者とは賢者に限らない。弟子を持つ賢者ならば、その弟子に学習させる事はできるし、弟子である必要すら無い。
さらに範囲を広げることもできる。
賢者が原典の写しを持っているとするならば、それを誰かに渡すことも物理的には可能であるし、本人の預かり知らぬところに流れてゆく可能性は無限大である。
つまりどこで誰が使っていようがおかしくはないという結論に達する。
エイルがその結論にたどり着いたところで、エルデが口を開いた。
「とは言え、さっきの話の通り、クランを敢えて自らのグラムコールにしようとか思うヤツはまずおらへんと思う」
エルデの言うとおり、クランは難解で習得することが極めて困難だと言われている。クランを完全に習得する事ができるだけの力があるのなら、間違いなく賢者になるだけの能力を持つルーナーなのだ。
そのエルデの論法ならニームは少なくとも賢者級のルーナーだという事になる。
「それから、気が付かへんかった?」
「あそこに居た三人のルーナーが、誰も精杖を手にしていなかった事か?」
エイルの即答に、エルデは満足そうな笑みを浮かべた。いや、嬉しそうと言った方がよい笑顔だった。
「なんか、すごいな」
「すごい?」
「ウチの知ってるエイルやないみたいや。出会った頃に比べると別人みたいやな」
「褒められているのかけなされているのか判断に迷う微妙な言い方だな」
「ウチはけなしてへん! これでも褒めてるんやで?」
「あ、わかってる。ただ、お前にそう素直に言われるとオレも照れるから」
エイルがそう言うと、エルデは心の底からホッとしたという顔をした。
会話が途絶えると広い居間はシンとした無音の状態になる。たった二人で居る事が途方も無く寂しく感じるような、寂寞感にさいなまれてしまう。
夜になり、窓を閉め切っているから、外の音が遮断されているからだという理由もあるが、屋敷に人の気配がしない事が一番の原因であろうと思われた。
エイル達が屋敷に戻った時にはラウもファーンもいなかった。アプリリアージェはラウが出かけにかけたと思われる睡眠ルーンで眠ったままだ。
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