第三十六話 接触 3/7

『なあ?』

【うん?】

『どれくらいで戻れそうだ?』

【わからへんけど……】

『じゃあ、戻らないうちにこのタコ定食、食おうぜ。いい匂いだし、すごくうまそうだろ?』【え……って、あ……】

『たまにはいいだろ? これはおまえが思うようなズルじゃないさ』

【うん】

 エイルはそう言うと迷わずフォークとナイフをとった。

 給仕がお勧めだというだけあって、エイルの目にもその一皿で出される定食はなかなか美味そうに映った。

 ぶつ切りのタコに衣を薄く付けてさっと揚げたものは、側にライムの切り身が添えてある。もう少し細かく賽の目状に切られた小皿のものは塩ゆでされたもののようで、オリーブオイルと複数のスパイスで調合された粉末がかけられてあった。その赤い身が鮮やかで、香りの良いオリーブオイルの効果もあって食欲をそそった。別の小皿にはキュウリとトマト、それに香草やチーズのスライスと共に、半透明の薄切りの身を和えたサラダがあった。主役は平たいパスタで、こちらはトマトソースと共に煮込んだぶつ切りの身がたっぷり乗っていた。

【おいしそうやな……ええ匂いや】

 エルデがぽつりとそうつぶやいた。

 エイルはそれには答えず、たこの揚げ物をフォークでつつくと、無造作に口に放り込んだ。



 エルミナの朝市はいわば地元の食品庫のようなものだが、旅行者にも人気の場所だった。水揚げされる新鮮な魚介類はもとより、水路や海路、さらに陸路も使った各地の食材が集中する場所である。それらを使った加工品や料理店も広大な広場に林立していて、訪れる人々の視覚と嗅覚を刺激する。

 ウンディーネも既に戦時下ではあったが、直接的な戦場は比較的離れていることもあってエルミナの街はまだ平和な空気に包まれていた。

 ただ「物」の価格で嫌が応にも非常時である事を感じてしまう。

 三ヶ月前と比較するとほとんどの品物が二倍以上の値札を付けていた。中には十倍にも跳ね上がっている物も珍しくない。

 特に保存食や加工品の値上がりが激しく、庶民の楽しみである安くて質のいいワインは市場から姿を消していた。


「ドライアド本国ほどではないのだろうが、ここもずいぶん物価が高くなったな」

 店先の商品の価格を眺めながら、シーレンがそう言うと、ニームが即座になじった。

「我々は怪しげなデュナンの男女二人組を探しにやってきたんだぞ。いちいち店先の商品を物欲しそうに眺めてため息をつくやつがあるか。みっともないぞ」

「世情の調査は怠るべからず、だ。安心しろ、私はお前と違ってこうやっていてもちゃんと索敵中だ。興味を引く物しか目に入らない誰かさんと比べないでくれ」

「ほう、よく言った。じゃあ、今すれ違った背の高い方の娘の目は何色だった? 言ってみろ」

 二人のやりとりを聞いていたジナイーダは、またか、とばかりに前を行く小柄な二人組をうんざりした顔でみやった。

 とは言え、今の状況はニームの体調が良いことの証明とも言えた。特にここ数日は床から起きられないほど弱っていただけに、口論が出来るほど回復した事については素直に嬉しかった。

 ニームの体調には波があった。ただ直線的に弱っていくわけではない。調子が悪い日が続くかと思うと、前触れもなく以前と変わらぬ状態になることも多い。数日単位で変化することもあれば、一日の内で状態がくるくると入れ替わることもあるという。むしろその不安定さがジナイーダは気になっていたが、もちろん口にはしなかった。


 ニームとシーレンはもちろん本気で口論しているわけではない。見た目はともかく実年齢では相当に年上となるシーレンの年甲斐の無さについて言いたい事はなきにしもあらずだが、それでもニームと同じ視線でやり合うシーレンの様子はジナイーダには楽しそうに見えるのだ。ニームについては言わずもがなである。

 こういう生産性の全くない、要するにばかばかしい口論が出来る相手と、ニームは初めて出会ったに違いないのだ。

 そもそもの口論の発端は、シーレンがニームの常識の無さを容赦なく指摘し出したところから始まったものだが、大賢者という立場など歯牙にもかけないシーレンの態度を、ニーム自身が好ましく思っているのは端から見ていてジナイーダにはよくわかった。

 ジナイーダ自身は正教会の賢者という立場にずっぽりとはまり込んでいるだけに、さすがにシーレンと同じ意識でニームを見る事ができない。また、そもそもジナイーダはニームを慕う気持ちが強く、とても口げんかの相手にはなり得ないのだ。

 おそらくニームにとって、エスカの一面をシーレンに重ねている部分があるのだろう。エスカも相手や自分の立場などお構いなく、言いにくいことを相手にズケズケと言ってのける『繊細な無神経さ』を持つ人物である。

 ときおり見せるシーレンの優しい眼差しが、エスカのそれと被って見える事すらある。ジナイーダですらそうなのだから、実際に言葉を交わしているニームはより強く感じている可能性があった。


 最初の出会いの場面を知っているだけに、シーレンの変貌ぶりを見ると、ジナイーダは改めてほっと胸をなで下ろさずにはいられない。

 いや、変貌ではないのだろう。シーレンがニームの見張り役である事には間違いはないのだろうが、最初から敵対するのではなく護衛をするつもりでいたのはもはや間違いはない。

 いくらシーレンの動きが速いとは言え、人間である。いつかは眠らねばならないだろうし、食事もとるだろう。それ以外にも常に一緒に居れば隙の一つや二つは見せる事もあろう。しかも味方は自分一人なのに対し、シーレンにとっての相手は二人。しかも一人は賢者でもう一人は大賢者である。本当にニーム達がその気になれば、シーレン一人を斃すことはさほど難しい事ではないのだ。

 それはシーレンの主であるミリアとてよくわかっているはずだ。すなわち見張り役ではなく、シーレンは間違いなく護衛として遣わされたのであろう。

 ではなぜミリアはニームの護衛をするのか?

 ジナイーダの仮説はニームと同じだった。

 結論を言えば、ミリアはニームに生きていて欲しいからだろう。

 理由はミリアがこの先エスカと交渉をするに至った時、ニームは最大の「手札」となる可能性があるからだ。

「可能性」という言葉を使うのは、エスカがニームを「切り札」と認めない場合が考えられるからだが、その点に関しては、ジナイーダはニームとは違い「そんな事はあり得ない」と確信していた。

 ニームとしては自分がエスカの行動を束縛する為の存在になる事は、絶対にあってはならぬ事だ。だからミリアの「手札」になるのは大いに不満ではあった。しかし、シーレンにはそう言う「裏」がない。そもそも最初からニームに対する敵意が感じられなかった。

 殺気を「わざと」放つことはあるが、それだけだ。それよりのなによりも、ジナイーダ達が一番驚いたのは、シーレンに対する風評と本人の持つ雰囲気の圧倒的な温度差であった。

「金の三つ編み」はともかく「狂兵」という名が、なぜこの人物に付いているのかを理解するのには時間がかかった。しばらくして本人の口から簡単な身の上話を聞かされるまでは「金の三つ編み」と「狂兵」は別人に違いないと思い込んでいたほどである。

 あまり人には明かせぬような身の上を、まるで他人事のように言ってのけるシーレンを見てから、ニームは完全に警戒を解いたようだった。

 警戒を解き、打ち解けた後の方がケンカの度合いが増すというのもどうかとは思うが、それでもジナイーダは、そんな二人のやりとりを見ると日常の中にいるという安心を感じるのだ。

 もちろん、いい加減うんざりはするのだが。

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