第三十話 生者と死者 4/5
「やれやれ」
ラウはまだ抱きついたままのファーンの頭をポンっと叩いた。
「もう悲しくないでしょ? さっそく護衛の仕事が入ったから、行くよ」
ファーンは顔を上げると涙を拭った。
「あれ? 奇っ怪です。本当になぜかもう悲しくありません」
「でしょうね。ほら、顔を洗ってきなさい。それくらいの時間はあるから」
一同はほぼ同時に立ち上がった。
エルデは薬を取りに行き、ファーンは顔を洗う為に屋敷に駆け込んでいった。
もちろんリリアに薬を渡すというのは言い訳なのだろう。
言い忘れた事があるのか、ただもう一度だけ顔を見たいのか、あるいはその両方か。
どちらにせよ、気負いを捨てたエルデが、実はこんなにも寂しがり屋だったという事がエイルには意外だった。
いったい今まで、エルデはどれほど気負っていたのだろう。どれほど自分を殺していたのだろう。
エイルはそれを思うと、息苦しい気分に襲われた。それは自分も同じだという事がわかったからだ。
「お待たせ」
エルデはいつもの薄茶色のフード付きマントを羽織っていた。
ラシフの髪をルーンで織り込んだ例のマントだった。
「これをこうやって深う被ったら……」
そう言いながらエルデはフードで顔の上半分は隠した。
「額の眼も隠れるし、髪も見えへんから大丈夫や」
「いやいやいやいや」
エイルは首を振った。
「屋敷を出たら、頼むから髪の色と目の色は変えていこうぜ?」
「嫌や」
しかし、エルデは一瞬で頬を膨らませると、口を尖らせてエイルの提案を拒否した。
「何でだよ? 目立つだろ? 額の眼を見られたらまずいんだろ?」
「絶対嫌や」
ラウとファーンが不思議そうにエルデを見た。それに気付いたエルデは二人のアルヴを睨むと、頬を膨らませたままで説明した。
「エイルはウチのこの黒い髪がええって言うてくれてんもん」
「は?」
「目も……その……黒い目がすごくきれいやって……」
「あーはいはい、そこまで」
エルデの言葉をエイルが遮ると、ラウとファーンは顔を見合わせて同時に肩をすくめあった。
「あの、ラウっち?」
「だめ。何も聞こえない」
しかしエルデはそんな二人にかまわずエイルの腕に自分の腕を絡ませると、上機嫌な顔で屋敷の扉へ足を向けた。
結界の外、エルミナ側の門の外へ出たとたん、エイルは腰に下げた妖剣ゼプスの柄に手を置いた。
それは無意識の行動だった。
その場が戦場であると本能が告げていたからである。
いや……
既に殺気は消えていた。
エイルは風が運んできた血の匂いに反応していたのだ。
「これは……」
ファーンが思わず服の袖で鼻と口を覆った。
嗅覚が人一倍敏感だというファーンにとって、不意に襲ってきた血の匂いは少々つらいものだったに違いない。
「血の匂いだ」
エイルは味覚と臭覚を失っているエルデにわかるようにそう言葉に出した。
ファーンがうなずいた。
「一人ではありません。複数の血の匂いがします。四人、いえ全体では五人。そのうち四人分が」
ファーンは風上……すなわち断崖の方角を指さした。
「あそこから」
エルデはファーンが指さす方向に顔を向けると、大きく目を見開き、持っていた薬の入った紙包みを落とした。
「ウチとしたことが!」
言うが速いか、エルデは掛けだした。
ファーンの指さす方向には、何人かの影が見えた。
エイルにはよく見えなかったが、視力に勝る亜神のエルデにはその人物が誰なのかがわかったのだろう。
エイルは脳裏に浮かんだ想像を無理矢理振り払いラウ達と顔を見合わせると、うなずき合ってエルデの後を追った。
だが、嫌な予感は的中していた。
目に飛び込んできた光景に、エイルの思考が止まった。
そこに立ち尽くしているのは肩を押さえたファルケンハイン。その隣に膝を落としてうなだれている人物は、見慣れぬ軍服を着たアキラだった。
そしてそのアキラの目の前に横たわっているのは、アキラと同じ見慣れぬ軍服を着たデュナンの若い女軍人であった。
だが、エイルの心臓を止めたのは違うものだった。
その側にはエルデが座り込んでいた。
精杖を右手に持ち、それを倒れている小柄な少女の上にかざしている。もちろんエイルもよく知っている少女だ。
エルデが手にしている精杖は白のスクルド。治癒の力を増幅するのに特化した精杖だ。
そのスクルドが白く、それも力強く発光して、ひときわ強い光の帯が倒れている少女を覆っていた。
「ファーン! ラウ!」
ルーンの詠唱がいったん終わると、エルデは振り返らず、二人の賢者に声をかけた。
「ファーン、そっちを頼む。ラウはここらへん一帯に結界と、みんなにありったけの強化ルーンを」
そして自分はすぐにまたルーンの詠唱を始めた。
だが……。
その詠唱が嗚咽に変わるのに、さほど時間はかからなかった。
首を振る。そしてうなだれて、肩を……いや、背中を震わせた。
エイルはというと、立ち尽くしたまま我が目を疑っていた。
詠唱が終わったという事は、治療が終わったという事だ。
エイルの場合はそうでなければならなかった。
だったらなぜエルデは泣いているのか?
だったらなぜ、ネスティは目を開けないのか?
「エルデ……」
そのわけを聞こうとして、エイルはファランドールで一番腕の立つハイレーンの名を呼んだ。
ハイレーンの頂点と言っていい
なぜなら、エルデにはエイルに伝える言葉……いや、エイルが望んでいる言葉を告げる事ができなかったからだ。
「エルデ?」
もう一度名前を呼ばれたエルデは、羽織っていたマントを脱ぐと、それをそっとエルネスティーネの体にかけた。首から下ではない。顔を含めた体全体を覆うように。そして、のろのろとした動作で立ち上がった。
その間も、エルデの顎からは間断なく滴が伝い、薄茶色のマントの上に落ちた。撥水力の高いラシフのマントは、その滴を玉に変えた。
「大丈夫……」
立ち上がったエルデは口の中だけでそうつぶやいた。
「え?」
聞き取りにくい程小さな声に、エイルが反応した。
「大丈夫や」
エルデは今度は少し大きめの声で同じ言葉をつぶやくと、ゆっくりとエイルを振り返った。
そこにはぎこちなく笑うエルデがいた。三つの目から流れる涙は止まらないようで、エイルは流れる透明の滴をぼんやりと眺めていた。
「ラシフ様のマントやから……雨が降っても……雪が降っても……濡れへん。そやから……コレで大丈夫や」
嗚咽をこらえながら途切れ途切れにそう言うと、エルデはまるでぶつかるようにエイルの懐に飛び込んだ。
「かんにんや」
そしてそう言った。だがその言葉は誰に対してのものなのだろう。
「かんにんって……エルデ?」
エイルはなぜか、その言葉の意味が全くわからなくなっていた。
「かんにん……かんにんや……ウチは肝心な時にいつも役立たずや……ボンクラでどうしようもない能なしや……何んもできへん……何んも……できへんかった……」
途切れ途切れにそれだけ言うと、後はもう言葉にならなかった。体全体をふるわせながら、エルデはエイルの腕の中で堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
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