第二十一話 小さな戦争 3/3
「ほらほら。まずは召し上がれ」
勧められるままに、いや強引に椅子に座らされたエルデは、しかし紅茶に手を付けようとはしなかった。
「遠慮せずに、是非飲んで下さいな。味は保証しませんが、結構勉強したんですから」
勿論そんなことでエルデが手を付けようとしないのは百も承知である。エルデは紅茶を飲む為にここにきたのではないからだ。逆の立場であったらエルネスティーネも手を付ける気にはならなかったに違いない。
エルネスティーネはエルデの隣に座ると、すっと優雅に手を伸ばしてエルデの目の前にあるカップを取り上げ、そっと息を吹きかけてから、その湯気の立つ紅茶を一口すすった。
怪訝な顔をしているエルデに向かってにっこり微笑んだエルネスティーネは、笑みを深めると、こう言った。
「ほら、毒なんか入っていませんよ」
その瞬間にエルデの目が吊り上がったのがわかった。部屋の温度が少し下がり、露出している顔や腕の皮膚がピリピリとする……。
だがそれはすぐに収まった。
エルネスティーネは脈拍が上がるのを自覚しながらも内心ほくそ笑むと、まるでアプリリアージェのような微笑でさらなる徴発をした。
「それとも、こんなものでは満足できませんか? でしたら私の血をさしあげますよ」
言うなりエルネスティーネはエルデに背中を向けて首を垂らした。
もちろん自分の首筋をエルデに見せつける為であったが、同時にエルデの顔を見ないようにする為でもあった。
そんな事はないだろうと確信していた。だがもし、万が一エルデが「あの顔」になってしまったら、恐怖で正気を保てる自信がなかったのだ。だから後ろを向いた。
エルネスティーネの言葉と行為が呼んだ沈黙がその場を支配した。
ざわついた空気になりはしたが、エルネスティーネの体感温度の変化は消えていった。
「えっと、ネスティ」
先に口を開いたのはエルデだった。その場を支配していた沈黙はエルネスティーネの徴発によって生まれたものだったが、それが続いたのはお互いに先に相手に言葉を出させようとしていた駆け引きが長引いたからであった。要するにその小さな攻防に、エルネスティーネは勝利したと言っていいだろう。
「なぜこんな見え透いた徴発をする?」
エルデの声には怒りの成分が一切感じられなかった。
むしろ湿った悲しみが含まれているように思えた。
「震えてるくせに」
エルデに指摘されて、エルネスティーネは初めて自分が小さく震えている事に気付いた。それはエルネスティーネの小さな、そして最初の誤算であった。
エルデが纏うまがまがしいエーテルに飲み込まれて自我を失った時の記憶が、無意識に蘇ったのだろう。エイルとベックの事件のこともある。何しろ人間ではまったく抵抗すらできない圧倒的な膂力(りょりょく)を見せつけられた挙げ句、目の前でエイルはエルデに腕を簡単に折られたのだ。
それを間近に見ていたエルネスティーネは、エルデの言葉に思わず唇を噛んだ。
「正直に言う。百の徴発的な言葉を投げつけられるより、私としてはそうやって震えられる方が何倍もヘコむ」
エルネスティーネはエルデを凹ます為に徴発的な発言をしたわけではなかった。自分に対する軽い敵意を持ってくれれば良かったのだ。その敵意は軽くなくてもいい。傷つけられない程度であれば、むしろいくら強くてもかまわなかった。
だが沈んだエルデの声には敵意は感じられなかった。そこにあるのは悲しみと寂しさという別の感情。それはエルネスティーネが望んでいたものではなかった。
「ごめんなさい」
そう言ってそのままの姿勢でさらに深く頭を下げたエルネスティーネは、その顔を上げてゆっくりと振り返り、自分を見つめるエルデの視線を受け止めた。
エルネスティーネはそこでその夜二つ目の誤算を発見した。エルデはエルネスティーネと視線が合うと、自分からすぐに顔をそむけた。だがその前にエルネスティーネにははっきりと見えたのだ。大きな黒い目に、今にもあふれそうにたまっていたものを。
二つ目のそれは大きな誤算であった。
エルネスティーネはこの時点で自分が立案した交渉術の術式がこざかしく陳腐なものである事を、嫌というほど思い知った。
エルネスティーネは会話の主導権を握ると同時に、本題に入るまえにエルデに自分に対する明確な敵意を持たせたかった。
なぜか?
そうすれば「自分もエルデに対して敵意が持てるはずだ」と計算したのである。
だが、全ては浅はかで馬鹿で、おろかで幼稚な考えだった。
「ごめんなさい」
エルネスティーネはもう一度そう言うと席を立ってエルデに歩み寄り、椅子に座ったままの瞳髪黒色の少女を抱きしめた。
優しいサクランボの花の香りにふわりと包まれたエルネスティーネは言葉を重ねた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
エルネスティーネは自分の弱点がわかっていた。それは王になど絶対になれない大きな欠点だと認識していたものだ。
「大好きなの!」
先に泣き出したのはエルデではなくエルネスティーネだった。
「私はエルデも、エイルも大好き。嫌いになんて……敵になんてなれないのに……ごめんなさい」
計算通り、いや計画通りに進める自信はあった。
自分にはそれだけの決意があると信じていた。
だがエルネスティーネはこの時、結局理性よりも感情を選んだ。
エルデに対する裸の感情が抑えられなかった事に対して「弱さ」という言葉が適切かどうかはわからない。
確かなのは、エルネスティーネは自分の手で自らが立てた計画を台無しにした事に対して一片の後悔すらしないだろうという事だった。
むしろほっとしていたのだ。
瞳髪黒色の美貌の少女の体温は、エルネスティーネの心の底に沈んだままの決意という塊を覆い尽くしていた氷を溶かすのに十分な暖かさがあった。
これから対決しなければならない相手の腕が、ためらいがちに背中に回され、そしてそっと肩に触れた。それはエルネスティーネにとって、エイルとの抱擁とはまた違う歓喜をもたらした。
素直に接する事はできなくても、決してお互いを嫌ってなどいない事が確認できた。それがエルネスティーネにはこの上なく嬉しかったのである。
それは心の中にあるエルネスティーネ・カラティアという人格を成す全てをぶつけ、受け止めて欲しいと願うほどの衝動さえもたらした。
エルネスティーネはしかし、肩に置かれたエルデのその手のぬくもりを感じながら「もう充分だ」と自分を言い聞かせていた。
「初めてあなたを見た時、私が何を思ったかわかりますか?」
鼻をすすり上げながら、エルネスティーネはエルデにそう尋ねた。両手でエルデの体を拘束したままの状態で。
エルデは無言だった。
「あなたはまるで小さな子供のようだった」
「子供?」
エルデが反応した。
少しだけ湿った声。おそらく涙を溜めたままなのだろう。
「あなたはエイルの服の裾をじっと握っていたではありませんか。おそらく無意識だったのでしょうけれど、私はとっさに『ああ、これがあのエイルの妹さんなんだ』って思いました。エイルはマーヤさんに会えたんだって」
「いや、マーヤは……」
「わかっています。フォウにいるんですもんね。でも、エルデのすごい力で、フォウからこちらの世界に連れ出せたのかもしれない……そう思ったんです。いえ、そう思いたかったんでしょうね」
「ネスティ……」
「だって、同時にこうも思ったんですもの。『絶対、嫌だ』って」
「嫌?」
「私の大好きなエイルが、私の知らない女の人とそんなにぴったり寄り添っているのを見て……心が、胸が、じくじくとざわついて苦しくて、吐きそうな気分になったんです。おかしいでしょう?」
「いや……」
エルデは何かを言いかけたが、言い淀んで言葉を飲み込んだ。
エルネスティーネはそんなエルデをさらに強く抱きしめた。
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