第十話 交換条件 4/4
イオスのいう事は正論だ。
たった一つだけ林檎を盗んだ人間が、その林檎の種を使って林檎の木を育て、やがて林檎を百個収穫し、罪滅ぼしとしてそれを最初の林檎の持ち主に渡したとしても、最初の林檎を盗んだという事実は消えることはない。
もっとも、林檎ならば後から帳消しという判断も成り立つだろう。百個の林檎を得た持ち主は、一個を盗んだ人間をその時になって許すかもしれない。
だが人の命は違う。
しかもルネは一人を殺したのではないのだ。
兵士達全員だけではない。その街にいた全ての人間の存在を一瞬にしてなかった事にしてしまったのだから。
あの時、あの街の空気中に存在した水分。その水を構成する最小の単位まで辿り、目に見えない一つ一つを一瞬で沸騰させた……。
ハロウィンは後にそう、ルネに伝えていた。
瞬時に蒸発させれば、一瞬のうちにその体積が一千六百倍にも膨れあがる水。しかも力が及ぶ範囲をその「力」で限定、つまり空間を密閉させた状態でそれを行ったのだ。ルネの力が及ぶ「水分」がどの範囲を指すのかはわからない。例えばルネが触れた人間に対して「それ」が可能であるのなら、多くの水分を含有している人間は内側から破壊されてしまうであろう。
「そんな君の力が、特定の人間の欲の為に使われるとしたらどうだろう?」
(そんなことはしない)
ルネは勿論心の中でそう答える。
だが、同時に「そうなってしまう」可能性も否定できない。
ルネは今まで外見こそ十二歳程度であったが、過ごしてきた歳月は優にその三倍に近い。もっとも今はその実年齢にあった容姿を持ってはいた。
つまり、子供っぽい考えだけをぶつけていられるほど幼くも、そして無知でもなかった。
本人の意思がどうあれ、従わざるを得ない状況というものは存在する。作り出せる。
そして今のルネにはその状況がいくつも想像出来てしまうのだ。
それは捨てきれない命との交換条件であったり、意思そのものを操るルーンや呪法の存在であったりと、様々だ。
それらを全て否定しようとすると、出会う人間、関わる人間を全て亡き者にして行かざるを得ない。しかも一人の例外もなく。
短い問いかけではあったが、イオスはそう言った可能性を全て含めた問いかけをしているのである。
わかった振りをしなければ答えるのは簡単だ。子供っぽい意地でなんでも可能なのだと言い張るのはたやすい。だがそうしたところで一体何になるだろう。
(私は水のエレメンタルだ)
それはもう、変えようのない事実なのだから。
イオスはルネが答える事を望んでいるのではないのだろう。その証拠にルネが口を開く前に問いを重ねてくる。
「利用したいと思う者があれば、利用させたくないと思う者も存在する。お前を二十年もの間隠し続けていた《銀の篝(しろがねのかがり)》がそう。そして僕も『そちら側』にいる」
「……とちゃウわ」
ルネはしかし、今度は反射的に言葉が口を突いた。
「うん?」
「《銀の篝》とちゃウ。ハロウ……ハロウィン・リューヴアークや」
「そうだね。エウレイは君にはそう名乗っていた。ではハロウィンという事にしよう」
イオスはルネがぶつけたものを、するりと受け入れた。だが、ルネの思いを受け止めたわけではない。イオスはルネにとってのハロウィンの名前が何であろうと、どうでもいいことなのだろう。どんな名前を名乗ろうが、どんな名前で呼ぼうが、イオスにとっては
そしてそれはつまり、賢者達にとって現世の名前には何の重みもないということでもある。
「君は疑問には思わないかい? 同じ側にいると言う僕が、なぜ彼……ハロウィンから君を引き離す形で手元に置いているのか。なぜそのまま彼の手にゆだねたままにしないのか。あるいは協力して、つまり一緒に君を保護しようとしないのか」
ルネにとっては確かにそれが疑問であった。
排除されるものだと思っていただけに、ある意味放置されている現状が気にならないわけがない。
あれこれ考えを巡らせても、イオスの考えている事などわかるわけがなかった。
だから、イオスの次の言葉に我が耳を疑った。
「エウレイに、いや、ハロウィンに会いたいかい?」
会いたいに決まっている。
ルネにしてみればそんな質問自体が無意味だった。
「僕が提示する条件を君が呑めば、会わせてあげよう」
「え?」
それは信じられないような提案であった。
幽閉されている期間に、何らかの状況が変わったのだろうか。
「会わせるだけではなくて、君と、そして彼が望めば一緒に居てもいい」
ルネはゴクリとつばを飲み込んだ。
それは、目の前にぶら下げられたエサに無条件に飛びつきそうになった自分をいさめる行為であった。
いきなり、この変化はおかしい。
こうなってしまえばもう、それはカンとしか言いようがない。つまり、ルネの頭の中には警鐘が鳴り響いていた。
そうだ。
イオスは言ったではないか。『条件を呑めば』 と。
「条……件?」
だからまずはそれを確認する必要があった。イオスがあえて「条件」という言葉を使うのであれば、それは容易に首を縦に振れるものではない可能性が高い。
だが、たとえそれがどれほど困難な条件であっても、ルネはハロウィンに会いたかった。鳴り響く警鐘に耳を塞いででも、気持ちが手を伸ばしていた。
「簡単な事だよ。君が純粋なエレメンタルになりさえすれば、それでいい。そうなれば君は自分の力を暴走させることも、誰かに力を利用されることもなくなる」
イオスはそう言うと、懐から何かを取り出して、それを掌の上に載せるとルネに差し出した。
「これは?」
見たことがあった。
正確にはこれと同じ物ではなく、以前見たものは不完全な形であった。イオスの掌の上で光を反射するそれは、完成した形だ。
「プリズム……宝鍵?」
イオスの眉が少し動くのがわかった。
ルネが宝鍵の事を知っているのが意外だったのであろう。
「驚いたな。龍珠を知っているのか……なるほど、そうか。君は《白き翼》と共に居たのだったね」
すぐにそう納得すると、イオスはすっと目を細めた。
「これは水の龍珠。これと一体になることにより、君は完全な水のエレメンタルに生まれ変わる。それを受け入れるのならば、彼に……ハロウィンに会わせよう」
ルネは差し出されたプリズムをじっと見つめた。
何の変哲もない、無色透明な直角二等辺三角形の三角柱だ。
だが、そのプリズムは水のエレメンタルの為の特別なスフィアだという。似たような事を、ルネは確かにエイルから聞いた事があった。
あの時、エイルは不完全なプリズムをエルネスティーネに差し出し、「触ってみるか?」と訪ねていた。
あの時、エルネスティーネが触っていたなら「完全な風のエレメンタル」とやらになっていたのだろうか?
「ただし」
イオスは続けた。
「完全なエレメンタルになった時、それはもう、君ではないのかもしれないよ?」
「え?」
それはどういう意味なのか?
「君を騙すつもりはないのであらかじめ断っておく」
ルネの心の中を読んだかのように、イオスはそう答えた。
「さすがに僕も、完全なエレメンタルの誕生に立ち会った事は無いんだよ」
つまり……
どうなるのかはわからないという事なのであろう。
「ただ、こう伝えられている。『龍珠を受け入れ、完全なエレメンタルになった者は、人間であった時の記憶を全て失う』、と」
その言葉に、ルネは半ば伸ばしかけていた手の動きを止めた。
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