第六話 波紋 1/4

「いや、ネスティ。違うんだ」

 その日一日で、おそらくエイルの余命は確実に数年は縮まったはずである。

 その場の雰囲気に流されてエルネスティーネと抱き合っていたところにいきなりエルデ達が現れた時でだいたい三年。そしてエルネスティーネに向かって「エルデ」と呼びかけてしまった時にざっと五年。

 この先エイルが何事もなく生きたとしても、都合八年ほど死期が早まったといえるだろう。

 二回目の失策の方がエルデにとって失う余命が多いのは一人の男として、口が裂けようとも絶対にしてはならない事だからだ。少なくともエイルはそう思っていた。

 だから、動転していたのだろう。とっさに口をついたのは、訳のわからない言い訳であった。言った後で自らに自嘲の言葉を投げた事でもそれとわかる。

(オレは何を言ってるんだ……)

 だが、すべては遅かった。賽は投げられた……いや、言葉は発せられてしまったのだ。

 蕩けるように甘い……少なくともエイルにはそう見えるエルネスティーネの顔が一瞬でエルデより恐ろしい空気を纏ったように思えた。


「そ、そうじゃなくて、今、エルデの声が聞こえたんだ」

 客観的には苦しい言い訳に聞こえた事だろう。事実、アプリリアージェは普段の微笑が苦笑に変わっていたし、ファルケンハインは片手で顔を覆っていた。

 だがもちろん、エイルにとってはそれは嘘ではなかったのだ。


『いきなりで驚いただろ。いったいどうしたんだよ』

 その場を支配する空気に窒息感を覚えつつも、エイルはエルデの事がきになっていた。

【……アンタとはもう一生口をききとうない】

 頭の中で呼びかけると、その不機嫌な顔がよくわかるような声ですかさずエルデが答えた。空耳でもなんでもない。エルデの意識がエイルの頭に入っていたのである。

『いいから、なんでまた戻ってきたんだよ』

【……アンタとは口をききとうないから、独り言しか言わへん】

 エイルは大きなため息をつきたい気分を、なんとか抑える事に成功した。

『わかった。独り言を頼む』

【コホン……ええと、早ようティアナに浴室に行くように言うんや】

『浴室? 』

【……浴槽があって、水入れて、お湯張って、そこに入って体温めたり洗ろたりする場所や。言うとくけどこれは会話やないで。独り言やから】

『浴室の意味くらいわかってる。まさかそこで誰かに襲われたのか? 』

【……ええからティアナを浴室に寄越すんや。そやないと肺に水が入って面倒な事になる】

「ええ?」

 頭の中の会話がまたしても声に出た。

「エイル?」

 ムッとした顔のエルネスティーネだったが、すぐにエイルの様子がどうもおかしい事に気付くと心配そうにそう声をかけた

「いや……確かに聞こえたんだ」

 どちらにしろエルネスティーネへ説明している暇はなさそうだった。エイルはティアナに向かって早口でエルデの伝言を告げた。

「ティアナ、悪いんだけど、浴室を調べてくれないか? そっちからエルデの悲鳴が聞こえた気がするんだ」

 さすがにエイルの一連の言動は不審すぎた。

「浴室?」

「頼む。オレが入るわけにはいかないだろ?」

【当然や。って独り言やから】

『はいはい』

【「はい」は一回でええ。って、これも独り言やから】


 だが、当然ながらティアナは事の次第が飲み込めていない。エイルの頼みはあまりに唐突だった。だいたいティアナにはエルデの声など聞こえていないのだ。

 しばらく顔を見合わせていた二人だが、そもそも自分で自分を挙動不審だとしか思えないエイルはすぐに肩を落とした。

 ティアナはそんなエイルに声をかけようとしたが、それはエイルの言葉で遮られた。

「頼む。エルデが溺れかけてるのかもしれないんだ。でもオレが風呂場に入って、もしそうじゃなかったらって考えると……」

「確かに、殺されかねないな」

 エイルの切羽詰まった口調に、ティアナは不信感よりも心配が勝ち始めた。

「特に今日は」

「それは言わないで……」

 エイルはティアナのだめ押しの一言に肩を落とした。


【たとえ本当に溺れてても、ただではすまへんから】

『おいおい』

【独り言や】

『はいはい』

 二人の会話を黙って聞いていたアプリリアージェが、そこで助け船を出した。

「ティアナ。とりあえず様子を見てきて下さいな。エイル君の勘違いなら、それはそれでいいじゃありませんか」

 確かにその通りだった。ティアナはアプリリアージェにうなずいて見せた。

「念のためにファーン、あなたも一緒に」

 続いて、もしもの事を想定した指示を出したアプリリアージェは、二人が部屋を出て行くのを見届けると、優雅な動作でエイルに向き直った。

「さて」

 表情は顔はいつもの通り、機嫌の良さそうな微笑であった。

「念のために聞きます。なぜティアナを指名したんですか?」

「え?」

「ここに女性はたくさんいますよね。それなのにエイル君は私でもネスティでも、賢者組のお二人でもなく、ティアナを指名しました。別にエイル君のすぐそばにいたわけでもないティアナを、です。私にはわざわざティアナを指名したように思えました」


【そんなん、決まってるやん。ティアナには見られても問題ない。ウチが勝ってるし】

『勝ってる? 』

【その話はええねん。ひとりごとやし。でもまあ、そういう意味ならラウでもファーンでもよかったけど、アンタが頼みやすいのはティアナやろ? 】

『はあ? 』

【それからこれも独り言やけど、ウチがまたこういう状態になるっちゅうのは内緒や。特に《銀(しろがね)》のおっさんとかラウ達にはバレたらアカン】

『その三人ということは、賢者組には知られるなという事か』

【それ以外に答えはないやろ? って、独り言やけど】


「えっと……ご指名というか……じゃなくてとっさです。とっさ。なんというか一番頼みやすかったというか」

「とっさに、ですか」

 アプリリアージェはそういうと目を細めてエイルと、そしてその隣のエルネスティーネとを見比べて小さなため息をついた。そして肩をすくめて意味ありげな一言をつぶやいた。

「あなたがエルデと顔を合わせづらいというのはよくわかりますけどね」

「いやいやいやいや」

 そうじゃない、と言おうとした時、右手に巻き付く柔らかい感触があった。

 エルネスティーネがエイルの腕を抱いたのだ。


【くっ】

「うっ」

 エルデの声は、あからさまな不快感を示すもので、エイルの声はある意味で快感を表すものだった。

 腕に伝わるエルネスティーネの体の感触が、エイルの体についさっきの記憶を蘇らせた。

 あっという間に上がる体温と脈拍をエイルと体を共有するエルデが感じないはずがない。そしてそれはエイルにとって想像を絶する羞恥を伴うものった。

【こ、このっ……】

 案の定、脊髄反射のようにエルデが頭の中でうめいた。

『な、なんだよ』

【は、恥を知れ、この発情大王! 】

『な、なんだとお? 』

【アンタがあんなに破廉恥な男やとは知らんかったわ。いや、知ってたけど……想像してたけど、あれほどとは思わんかった……】

『独り言だから聞き流すことにする』

【アホ、独り言はちゃんと聞け! 】

『あれは、何というか……オレじゃなかったというか……というか、もう勘弁してくれ』

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