最終話 ラクジュ街道の戦い 1/6

 闇が薄く開いた。

 焦点が合わない。

 ここはどこだろう。

 そんなことを思ったのは一瞬だった。

 視覚の次に聴覚が反応したのだ。


「フリスト!」

 耳に届く女の子の声。

 知っている声だ。

 フリストが誰かも知っている。

 だってフリストは私なのだ。

「しっかりしろ。ボクがわかるか?」

 今度は男性の声だ。これも知っている。

「ミリアさま……」

 視覚と聴覚の次に反応できたのは声だった。

 頭が重い。それに寒い。

 何があった?

 起き上がろうとした。だが肩に置かれた手が邪魔をした。

 温かい手だった。皮膚の感触がわかる。たぶんずっとそこに置かれていた手なのだろう。

「よかった……」

 焦点が声の主に合った。

 眼鏡の奥に見える金色の瞳……ミリア・ペトルウシュカ。私の主(あるじ)だ。

「何もしゃべるな。イエナ三世はかすり傷ひとつない。君は助かった。今の君に必要な情報は以上だ。君はこの後、少しの間眠るといい」

 ミリアの声はなぜか弱々しかった。いつも冗談か本気かわからないようなことばかり言う主は、もっと元気なはずだった。

 だが、そんな弱々しい声のミリアも、フリストは知っていた。初めて出会った時も、確かこんな声だった……。


「ミリア様!」

 フリストはようやく覚醒した。事態を把握したのだ。

 馬車の中。

 血の匂い。

 涙でくしゃくしゃになったスノウ・キリエンカの顔は泣いているのか笑っているのかわからない。いつもぼんやりとした表情の少女がこんな顔にもなるのだと少しおかしくさえあった。

 そしてミリア。

 対面にあるソファに腰かけて、ぐったりとしている。

 その筈だ。

 フリストはミリアがそうなっている理由を知っている。

 初めて出会った時も、ミリアは蒼白な顔で地面に横たわっていた。

「また、無理をなさいましたね?」

 フリストは視界がぼやけるのを感じていた。声もまともに出ない。目じりを伝う液体が冷たいのはすっかり体温が下がってしまっているからだろう。

「君が助かるなら、これくらいはするさ」

 フリストは小さく笑った。

「ミリア様。あなたは司令にそっくりです」

 ミリアはぐったりとして目を閉じたまま、力なく片手をあげて答えた。

「よしてくれ。ボクは死に神でも悪魔でもない。ただのバカだよ」

「バカには同意します。それに、私は褒めているわけではありません」

 フリストはそう言うと、鎖につながれているかのように重くなっている左手を持ち上げ、 涙をぬぐった。そしてそのまま指をツッと顔に走らせる。そこはかつてあった醜い刀傷の痕だ。いや、痕はない。ミリアと初めて出会った時には既に完全に消えていた。

 傷がなくなっている事を知った時、勝手なことをしたとミリアを責めたことを思い出した。フリストにとってあの傷は戒めだったのだ。だが今では感謝していた。なくなってしまってわかったからである。あの傷は自分に対しての戒めではなく、あの傷の原因となったアプリリアージェに対するあてつけにしかなっていなかったことを。

 ほんの少しの隙に付け込まれ、フリストはその時命を失っていたはずであった。だが、フリストの窮地を認めたアプリリアージェが、相手の剣の軌道を十センチずらすことに成功したのだ。

 フリストの首を切り落とすはずだった剣は、その切っ先で顔の表面をえぐるにとどまった。間一髪。まさにそんな言葉が似合う瞬間であった。

 だが、フリストの命には代償が必要であった。それはフリストの顔に深く刻まれた傷だけでは足りなかったのだ。アプリリアージェは、自分が戦っていた相手を放棄してフリストの救助の為に体勢を変えた。もとより楽な相手ではなかったのに、だ。戦いをいきなり放り出して背中を向けた敵を見逃すほど、相手は甘くなかったという事である。

 振り下ろされた剣はアプリリアージェが身に着けた服を裂き、裂けた場所からは血しぶきが上がった。背中を袈裟懸けに切り付けられたアプリリアージェは骨まで達するほどの深い傷を負い、大量の血を失って意識を飛ばし、その場に沈んだ。

 とどめをさすために再び振り上げられた敵の剣の動きを止めたのは、金と銀の二条の影だった。「ドール」と呼ばれたテンリーゼン・クラルヴァイン。そして「金の三つ編み」という二つ名を持つシーレン・メイベル。二人が交差した後には、ル=キリアの双黒と呼ばれる二人のダーク・アルヴを窮地に陥れた敵の躯が横たわるばかりであった。

 アプリリアージェが切られた衝撃で硬直していたフリストが我に返ったのはその時であった。その時点ですでに戦いの決着はついていた。二人のアルヴィンが倒した相手は敵の司令塔だったのだ。

 その後の事はフリストの記憶にない。命に別状はなかったとはいえフリストの顔をえぐった傷は一人の人間の意識を持っていくには十分なものであった。

 だからフリストは、イブキ・コラードから聞いた話で記憶を補う事になったのだ。

 その場で最も高度な医療知識を持つテンリーゼン・クラルヴァインのおよそ人間味のない「精霊会話」の指示を受け、隊員から応急処置を受けた後、手配された医師の手当てを受けることになったのである。

 フリストはともかく、アプリリアージェは生死の境をさまよった。背中を袈裟懸けに切られた傷はろっ骨を数本切断し、脊椎の一部も削っていたという。不幸中の幸いだったのは脊椎の損傷は表面だけで、断裂した筋肉や神経は手術によりつなぎ止められた事である。あとはろっ骨さえ完治すれば元通りの運動能力を発揮できるだろうという事だった。

 本人のたっての希望でエッダではなくエスタリアの公爵邸で養生をしたアプリリアージェは、何をどうやったのか、二週間後にはエッダにいつもの微笑を浮かべて現れた。数は少ないが優秀なハイレーンがまだファルンガにはいたのである。

 フリストはアプリリアージェの無事な姿を見ると、それまでの心配が怒りに変わるのを感じた。それは心境の変化というものではなく、裏切られたという思い。いや、思い込みだった。

 フリストが尊敬してやまないアプリリアージェは、常に完璧であらねばならなかった。自分が目標としている人物が些細な情で流されるような人間であってほしくなかったのだ。

 アプリリアージェは部下に対し、戦場ではいつも冷酷であれと命じていた。目標完遂に対して真摯であるという事はすなわち、場合によっては仲間を捨て駒にする覚悟が必要だと説いていた。怜悧で合理的な判断こそ部隊全体を生かし、反対に甘さは作戦の失敗だけでなく、部隊全滅の呼び水になるのだと。

 だが、部下にそれを強要する司令官が、一番甘い人間だなどと、いったいどういう茶番なのだ? フリストはその点について深く憤っていたのである。

 あの時アプリリアージェがフリストを助けるために動かなければ、おそらくアプリリアージェは相手に負けることはなかったはずだった。フリストを倒したもう一人の敵が、獲物をフリストからアプリリアージェに変えようとする頃には、金か銀か、もしくはその両方が、自分たちの仕事を片づけて合流していたはずであったのだ。

結果として一人の味方を失う事にはなるだろうが、ル=キリアが貴重な司令塔を短期間とはいえ失う事はなかったはずなのだ。

 いざと言うときに持論を翻す最高司令官など、その任に値しない。

 そしてそんな司令官をフリストは許せなかった。

 だから、久しぶりに出会ったヴェリーユの地下道で、その思いのたけをぶつけた。ル=キリアにいる限りは敢えて振れなかった事であるが、ヴェリーユでは互いに違う陣営に所属し、もはや何の遠慮もない。

 だから、気持ちをぶつける事ができた。

「あなたには負けない」 と。

 そんな甘い人間に自分が負けることなど許されない。いや、許せない。

 その思いをそのままぶつけたのである。

 フリストはアプリリアージェの事をバカな女だと思っていた。

 同様に、目の前で虫の息になっているミリアもバカな男だと思っていたのだ。

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