第八十五話 第七条 5/5
「お主は黙っておれ。ウーレンハウト元帥の言うとおり、今は彼が発言している」
トルマは自分を睨むイエナ三世に敬礼をすると、唇を噛み絞るようにしてうつむいた。
ウーレンハウトと呼ばれた近衛軍元帥は口の端に小さな嘲笑を浮かべると、改めて顔を正面の舞台に立つ、自分の半分ほどの背丈しかない小さな女王、イエナ三世に向けた。
「これはまさにシルフィード王国の緊急事態。このような時においては、間違いのない能力と実績こそが軍を司る者には肝要と言うもの。すなわち……」
「すなわち元帥会議ではサミュエル・ミドオーバ大元帥の軍務大臣就任を決定した、か?」
イヤバス・ウーレンハウト近衛軍元帥の言葉を今度は国王自らが遮った。
「トルマよ」
イエナはそのまま今度はイヤバスの後ろに控えるトルマに声をかけた。うつむいていたトルマは国王が自分を呼ぶ声に思わず顔を上げた。
「ウーレンハウト元帥はそう言っておるが、お主は同じ元帥としてそれに同意したのか?」
「元帥会議は満場一致でございました」
話の腰を折られたイヤバスは負けじと口を挟んだが、イエナ三世はすかさずそれを叱責した。
「黙れ、ウーレンハウト! 余はトルマと話をしておるのだ」
相変わらず睨み据えるイエナ三世の表情は険しい。緑色の瞳でイヤバスに一瞥をくれた国王は、改めてトルマに視線を戻すと再度たずねた。
「どうなのだ?」
「私は……」
トルマは腹を決めかねていた。
いや、腹はとうに決めていた。だがそれはガルフに対する態度であって、イエナ三世がこのような行動に出るとは夢にも思っていなかったのだ。だから口にすべき言葉を決めかねていたと言った方が正しいだろう。
「質問を変えましょう」
数秒だけ待って、イエナ三世はそう言った。トルマに言葉を選んでいる時間を与えなかったと見るべきであろう。
「トルマよ。シルフィードの法律をお前は知っているか?」
「は?」
質問の内容が変わるにも程があった。少なくともトルマとイヤバスはそう思ったに違いない。
「まったく、揃いも揃って国の重責を担うべき輩がその守るべき国の法を知らぬとはな」
イエナ三世はそう言ってわざとらしいため息をつくと、今度はイヤバスに口を開く権利を与えた。
「面倒だから『はい』か『いいえ』で答えよ、ウーレンハウト」
「は、はい」
「よし。では聞こう。お前は元帥会議で軍務大臣の後継、いや正しくは軍務大臣代行だが、とにかくそれを内定したと言ったな?」
「はい」
「ふむ。それはシルフィード王国の法律に沿った決定か?」
イヤバスは眉をひそめた。イエナ三世が言わんとしている事をすぐには理解出来なかったからだ。この年端もいかぬ子供が、法律等という言葉を取り出して何を説教しようとしているのか……そう思わざるを得ないような愚問だと思ったのだ。
「疾く答えよ。余は決して難しい質問はしておらん」
イエナ三世が時折挟むこうした大声の強い調子の叱責は、その場の雰囲気を支配するのに大きな効果を持っていた。
普段から怒鳴り散らす人間の大声などというものは、やがてはただの騒音に堕す。しかし反対に普段は穏やかで優美な姿形の少女がこれをやると、普段のイエナ三世、いやエルネスティーネ王女をよく知る者ほどその格差に戸惑い、その雰囲気に呑まれてしまっていた。
「も、もちろん、法に則った選定です、陛下」
「『はい』か『いいえ』だ、ウーレンハウト」
「は……はい」
イヤバスの答えを聞くと、イエナ三世は彼ににっこり笑いかけた。
それは彼がよく知る王女エルネスティーネの「シルフィードの宝石」と呼ばれるゆえんたる、なんとも言えぬ優しい笑顔そのままであった。
イエナ三世は間違い無く王女エルネスティーネが即位した姿なのだと、頭ではなく心が感じた瞬間であった。
だが、その顔はすぐに真顔に戻った。
イエナ三世はイヤバスを見つめたままでその場に居るはずの違う人物の役職名を呼んだ。
「法務大臣!」
いきなり呼ばれた内政官は慌てて返事をした。この場の異様な雰囲気に気をもんではいたが、彼は観客の立場でやりとりを聞いていたものだから、その舞台にいきなり引きずり出され、いったい何を叱られるのかと既に気持ちは受け身であった。
「ウーレンハウトは合法的に軍務大臣の後任を元帥会議で内定したと申しておるが、そのとおりか?」
各大臣が出席する閣議はシルフィード王国では元帥会議の下に位置する。文官である内政官が担当する法務大臣は元帥会議には出席資格はない。実態がどうあれシルフィード王国の構造が軍事国家のそれである事がこれでよくわかる。
とは言え手続き上、元帥会議での決定事項はまず最初に軍務大臣の精査を受け、法的に問題がないかを法務官に諮った上で閣議に報告される事になっている。
つまりイヤバス・ウーレンハウトの言う事が本当、つまり元帥会議でサミュエル・ミドオーバの軍務大臣指名が正式に決定、いや内定しているとするならば法務大臣が知らぬはずはないのである。
つまり法的な手続きの確認をイエナ三世が行ったと言う事である。これはある意味極めて自然な事であるが、問題はその国家的に重要な事柄を国王が今初めて知ったと言う事であろう。
その件で今国王に問い詰められてはたまらないが、とりあえずの質問に対する答えは簡単なものである。
突然指名された法務大臣は少しだけ胸をなで下ろすと、当然だという口ぶりで答えた。
「ウーレンハウト元帥のおっしゃるとおり、空席になった軍務大臣の後継は元帥会議で内定もしくは決定ができることになっております。ついでに申し上げるならば閣議への報告も済んでおります」
法務大臣のその答えを聞くと、イヤバスは「そらみろ」という風に自分を見据えるイエナ三世を少しだけにらみ返すようにして見せた。
だがイエナ三世は眉一つ動かさなかった。
「ふむ」
彼女は法務大臣の報告を受けると表情は変えず腕を組むと独り言のようにつぶやいた。
ただし、その独り言は相手に聞こえるような独り言であった。
「では、私の記憶違いか」
そう言ったイエナ三世に対し、イヤバスはここぞとばかりに口を開いた。
「左様でございます。我が国の法的にはそう言う段取りになっているのです」
イエナ三世はその言葉を聞くと、再びイヤバスに笑いかけた。ただし、今度は明らかに冷ややかな笑いであった。
「バレニー法務大臣!」
「は」
「シルフィード王国大臣法『軍務大臣代行の指名』を読み上げてみよ」
「え?」
何を言われるかと思えば、法務大臣としての知識をこの場で試験でもするつもりか……。
バレニー法務大臣は新王であるイエナ三世にやや失望を感じていた。自分の立場が弱くなると、つまらない課題を与えて相手が困るのを見て溜飲を下げようとしているのだと思ったからである。相応以上の能力がなければ大臣職に付く事など出来ないのがシルフィード王国である。もちろんバレニーはシルフィードの現行の法律など全て暗記していた。
バレニーはこう思ったのだ。
イエナ三世は自分が法律を全て暗記しているとは思っていないに違いない。だからこそ、そこで即答出来ないバレニーにつまらない言いがかりでもつけるつもりなのであろう、と。
イエナ三世に対抗してそこで完璧に暗唱してみせる事はたやすい事だった。
だがバレニーは少しだけ意地を見せてやろうと一計を案じた。
彼は少し離れたところに居る従者に法全書を持ってくるように伝えた。
イエナ三世がそこでその行為を咎めれば、即座に暗唱して見せ、法全書は自分の暗唱した分に間違いがないかを確認してもらう為に、つまりイエナ三世のために持ってこさせたのだというつもりであった。
だがイエナ三世は何も言わず、法全書がバレニーの手元に届くのをじっと待った。
長くはかからなかった。ほんの一分ほどで分厚い法全書がバレニーの手に握られていた。
その場に居た誰しもがバレニーが該当箇所を開き、そこを読むものだと思っていた。だが彼は法全書を閉じたままで条文を暗唱し始めた。
「第七条……」
だが、そこで声が止まった。
バレニー法務大臣は口をつぐむと、一度イヤバス・ウーレンハウト元帥の方へ顔を向けたが、再びイエナ三世に視線を戻した。
「どうした? バレニー」
ワサン・バレニー法務大臣は隠しからハンカチを取り出すと、額の汗を拭った。
「しかし、陛下……」
「さすがは我が国の法務大臣。法律を完璧に暗記しておるようだ」
「ですが、法というのは……」
「お前の法解釈などどうでも良い」
イエナ三世はピシャリとそう言うとバレニー法務大臣の口を塞がせた。
「それともお前は一大臣の分際で余が心から尊敬する偉大なるイエナ二世が制定された大臣法がおかしいとでも言うつもりか?」
バレニーは何も言えなかった。
事態が思わぬ方向に転びそうなのを見て、イヤバスの顔に戸惑いと焦りの表情が浮かんだ。何がどうしたのだ、と言う問いをワサン・バレニー法務大臣に対して投げかけたかったが、おそらくそれはイエナ三世が叱責するだろうと言う事は想像がついた。
そもそもワサンの様子を見れば事の結果は明かである。
つまり、サミュエル・ミドオーバの軍務大臣内定は合法ではないと言う事である。
「そんなばかな」
思わず言葉が口をついた。
「トルマ!」
「は」
「バレニーの持っている法全書をウーレンハウトに渡してやれ」
おそらくこの場に自称「歩く図書館」であるアトラック・スリーズが居たならば、彼はイエナ三世が演出している寸劇の「落ち」を自分の司令官であるアプリリアージェに既に伝えていた事であろう。
だがその日大葬に参列したシルフィードの政府要人は一握りの人間を除き、この時点でもまだ若き女王が「切り札」を持っているとはつゆほども思っていなかった。
だが同時に、女王と法務大臣との間では既に勝負が付いている事もわかってはいた。
自信満々で内定した事を告げ、それを合法であるとみとめた法務大臣。だが一度合法である事をみとめた当の法務大臣が、法の専門家でも何でもないはずの女王の「条文を読め」というたった一言に青ざめ、あわてて弁明に走ろうとした事は事実であった。
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