第八十三話 二人の大元帥 3/3

「だったら俺は大した奴だってことだ。若くて別嬪なカミさんと、人がおそれる力を同時にこの手にしたようなもんじゃねえか」

 エスカはそう言うとニームに回した腕に力を込めた。

「それに加えて大賢者の肩書きまで味方に付けてるんだからな。断言するが、ファランドールでも一人でここまでの大勢力を持っている奴は俺以外にはいないね」

 ニームは大賢者という言葉に反応したようだった。

「大賢者だろうと私はやはりまだ子供なのだ。気をつけてはいてもとっさに感情が爆発してしまう事がある。そうなってしまったら、偉そうな事を言っていても本当にただの子供なのだと言う事が夕べの件でよくわかった」

「何度も言わせるな。もう夕べのことは気にするな」

 だがニームはエスカの腕の中で大きく首を左右に振った。

「こんな私では、あなたの妻として幼すぎる」

「うーん」

 ニームからは依然として強烈な「気」が発せられていた。顔を確認するまでもない。まだ三眼のままなのであろう。だが、エスカはすでにその「気」に慣れていた。いわば「素」の状態のニームが垂れ流すエーテルである。ある程度耐性ができていたのであろう。

「なあニーム。お深紅の綺羅(しんこうのきら)……じゃねえや、母親にどうしても会わなくちゃならないのか? このまま俺とずっと一緒にいればいいだろう?」

 その言葉にニームは一瞬体をこわばらせた。

「その言葉、そっくりそのまま返す。あなたもエスタリアで好きな茶葉の研究をなぜしない? きっと平和で楽しいに違いないぞ」

 わかっていた事だった。エスカは言ってみただけなのだ。お互いにやるべき事があるのだ。その為の協力関係が、思ったよりも深くなってしまっただけなのだ。

「そうだな」

 エスカは短い沈黙の後そうつぶやいた。

「わかった。もう聞かねえよ。だが耐えられなかったら我慢せずに俺の血を吸え。というか、俺以外の血を吸うな。いいな?」

 ニームはエスカの胸の中で頷いた。

「でも、いつまでもコイツに振り回される私ではない。リリやジーナは当初から完全にマーリンの瞳を自分たちの制御下に置いてたと言っていた。私にもきっとできる」

「お前らしいぜ。その意気だ」

 エスカはそう言うと抱きしめた腕の力を抜き、片膝をついて自分の顔をニームの顔の高さに合わせた。

 そして間を置かずにそっと手を伸ばして目の前の濡れた頬を持つ少女の顎の下にあて、やさしく顔を持ち上げるようにした。

「ま、待って」

 ニームはエスカが唇を重ねようとするのを知ると、そう言って制した。

「何だよ」

「三眼の……ままなのだぞ? 悪いが消えないのだ。どうにもまだ興奮が収まらぬ……」

「三眼だろうが二つ眼だろうが、お前はニームだろ?」

「あ、あたりまえだろう」

「じゃ、何か? 包帯をしている俺とじゃ嫌か?」

 ニームはエスカがそう言うと、ものすごい勢いで首を左右に振った。

「そんなわけはない! 嫌なんかであるものか。嫌じゃないけど……」

「けど?」

「恥ずかしいのだ……」

 ニームはそう言うと三眼のまま顔を真っ赤にした。

 エスカが顎を支えていなければ、俯いていたに違いなかった。

「心配するな」

 エスカはそう言うと片方の手でニームの頭を優しく撫でてやった。

「俺も三眼のお前とするのは妙に興奮して恥ずかしいぜ」

 ニームはエスカの言葉を聞くと目を細め、真っ赤な顔で苦笑した。

「あなたと言う人は本当に……」

 言葉はそこで途切れた。エスカがニームの唇を塞いだのだ。


「『本当に』何だって言うんだ?」

 短い口づけの後、エスカは唇を今度は耳元に寄せてそうニームに尋ねた。

「――性格が最悪だと言おうとした」

「そりゃ良かった」

「何がだ?」

「そこまで言われてたら、お前のその可愛らしい鼻をかじるところだったぜ」

「なっ……あ」

 ニームが抗議のセリフを何か言いかけたが、またしても開こうとした口はエスカに塞がれた。

 だがニームは一切逆らおうとはせず、目を閉じて両手をしっかりとエスカの背中にまわし、エスカの求めに応えた。

 その日二度目の口づけは、ニームにはとてつもなく長く感じられた。

 いや。長かったのか短かったのかもわからなかった。時間の概念が消えてしまうほど、ぼうっとしてしまったからだ。

 論理的な事象構築を司る機能が麻痺すると、あとはなし崩しだった。ニームはすぐにエスカとの口づけに夢中になり、そのうち自分がいったい誰なのかと言う事さえ、もうどうでもいいことのように思えてきた。

「あ……」

 長い口づけが終わり、唇が少し離れた時に、エスカが何かを思い出したようにそう声を出した。

「何?」

 閉じていた目を薄く開けて、ニームはエスカの顔を見た。既にニームの三眼は閉じられ瞳の色は快活そうな茶色に戻っていた。

「いや、もし血を吸われたら、俺はいったいどうなるんだっけ?」

 ニームはエスカの背中に回した手に力を入れてエスカを引き寄せると、今度は自分からエスカの唇にそっと口づけた。

「大丈夫。死なない程度で我慢するから」

「すると貧血状態ってわけだな」

「普段から血になる物を食べるようにしておくといい」

「承知した」

 そう言うエスカに、ニームは再び自分から唇を重ねた。




「さて。お前さんも忙しいだろうから本題に入るとしよう」

「本題だと?」

 ガルフは訝しがるサミュエルに鷹揚にうなずくと、リーン・アンセルメ少尉に合図をした。

 リーンはガルフの側に寄ると改めてサミュエルに一礼した後、懐から筒状にした紙を取り出して恭しく差し出した。

 サミュエルは六翅のスズメバチのクレストの封蝋がある書簡とガルフを交互に見比べた。

「かくも盛大に近衛軍挙げての出迎えをしてもらったせっかくの場で、このような事を申し出るのはまことにもって心苦しいのだが、是非受け取ってくれ、サムよ」

 ガルフに急かされたサミュエルは、リーンの手から筒状の書簡を受け取った。

「これは?」

 サミュエルには書簡の内容がいったい何なのか、見当がつかなかった。予想外の事が起こりすぎている事にさすがに警戒感が生じていた。だから安易に書簡を開ける前にそう尋ねたのであろう。

 実際問題として五個大隊もの隊軍がエッダの中心部を埋め尽くす事態が想定外であった。

 事前に情報はなかった。さりとてこれほどの大軍が降って湧くわけがない。

 いや……。

 降って湧きでもしなければ、これほどの人間の移動に気付かないはずがない。

 エッダの回りには近衛軍の兵士がくまなく、文字通り四六時中哨戒にあたっている。

 それだけではない。

 エッダに続く街道という街道、集落という集落には充分な警備網が整えられている。

 それらの情報網から寄せられていた情報はすべて「二個中隊を率いた王国軍大元帥閣下」がエッダに向かっているというものだったのだ。それ以外の情報は皆無だった。

 つまりサミュエルの想像が及ばない何か、それもとてつもない何かの力が働いていることは確かだった。

 彼は一瞬、自らの罠をもって灰燼に帰した三聖蒼穹の台(そうきゅうのうてな)の顔を思い出したが、慌ててそれを振り払った。

 それはあり得ない事だ。それにたとえ《蒼穹の台》が生きていたとしても、三聖である彼が一国の内政に関与する事は考えられなかった。


「いやなに。年末あたりから持病の腰痛が特にひどくてな。このところ床に伏せることが多く、貴様も知っての通り公務にも支障をきたすようになってしまった。それでよい機会だからここで退役しようと決めたのだ。イエナ三世陛下には我がキャンタビレイ家の若き勇の者を側臣としてお仕えさせる所存。従ってそれには我が後任の推薦も記してある。が、まあ、あれだ。あとは陛下ご自身がお決めになる事であろう。そう言うわけであるからこの手で陛下に直接お渡ししたかったのだが、時期も時期。大葬の儀もそろそろはじまるとあらばこれはサム、貴様に預けるのが筋であろうと思ってな。ま、一言で言うならこれは『詫び状』だな」

「なんだと?」



「ニーム」

 精杖を通じてガルフ・キャンタビレイ大元帥の引退宣言を聞いたエスカは、思わず顔を上げてニームに声をかけた。

「聞いたか?」

 だが、ニームは長い口づけの余韻で目も開こうとしなかった。

「おいこら、ニーム」

 エスカは、心の中で苦笑しながらニームの柔らかいほっぺたをグイッと引っ張った。

「帰ってこい」

 エスカの呼びかけにニームはようやくうっすらと目を開け、そして目の前のエスカの顔を認めると、恥ずかしそうに顔を背けた。そして何も言わずにそのままエスカの胸に顔を押しつけた。

「おいおい。しっかりしろ」

「え?」

「聞いてなかったのか? たった今、キャンタビレイ大元帥が引退宣言したんだよ」

「誰が?」

「キャンタビレイ侯爵だ。シルフィード王国軍大元帥の!」

「それは偉い人?」

 ボンヤリとした目で自分を見上げるニームの頬は真っ赤に上気したままだった。

 エスカはその様子を見て頭を描いた。

「しまったな」

 そう言うと、顔を胸に埋めるニームの頭を撫でてやった。

「お子ちゃまには、刺激が強すぎたか」

 そうつぶやくエスカはしかし、心の中では自嘲していた。口ではそう言ったものの、自分とてニームとの口づけに夢中になっていたのである。エスカはニームから香るいい匂いの中で、時を忘れて若い妻の唇をむさぼっていたのだから。

 エスカはニームにどんどん夢中になっている自分の感情を自覚していた。年齢が離れている事や相手が特殊な立場の人間だという事実など、どうでもよかった。ニームと唇が、そして肌が触れ合う度に、相手を思う気持ちが大きくなっていくようであった。

 しかしながら幾ばくかはまだエスカの方が冷静であったのだろう。精杖を通じて伝わるやりとりは頭の中に入っていたのだ。

 興奮でのぼせ、ぐったりとしているニームを胸に、エスカは窓の下で繰り広げられるシルフィードの大きな政変の現場に目をやった。

 これから先は何があっても一言も聞き逃すまいと、心の中で自分に叱咤しながら。

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