第六十八話 囚われ人 4/4
「なんちゅう顔してんねん、エイル」
そう言って笑うエルデの顔は、エイルには妙にうれしそうに見えた。
「うるさい。この顔は生まれつきなんだよ」
「アンタは生まれつきべそかきなんか?」
「え?」
指摘されて、エイルは思わず自分の目に指を当てた。
「べ、べそなんてかいてないだろっ」
エイルはそう言うと、袖口で涙をぬぐった。エルデに言われるまで自分が泣いている事に気づいていなかったのだ。
「あれ?」
いつから泣いていたのだろうか?
バツの悪さを感じながらも、エイルは自覚がない事をいぶかしんだ。
「ふふ。そや、なんて言うたかな、あれ」
「あれって?」
「アンタが昔言うてたやろ?フォウの母親はみんなルーンが使えるって。子供がケガした時に治すルーンやったっけ」
「ああ」
エイルはそう返事をすると、もう一度涙をぬぐった。
「そんな事言ったっけ? でもあれはケガを治すルーンじゃない」
「伝統的な治癒ルーンやって言うてたやないか」
「痛みを緩和するだけだ。傷は治らない」
「ふーん。でも、治癒のルーンなんやろ?」
「そうだな」
「そのルーンの認証文を教えてくれへんか?」
「認証文というか、オレが知っているフォウのルーンは認証文しかないんだけどな」
「うん。それでええ。それをウチに教えて欲しい」
「ここで、今、言うのか?」
「なんや?問題でもあるんか?」
「いや……じゃあ、一回だけだぞ。二回は言わない」
「充分や。ウチの記憶力をなめたらアカン」
「――『痛いの痛いの、飛んでいけ〜』かな」
エイルが意を決したようにそう言うと、エルデは腹を押さえてかがみ込んだ。
「ふ。ふふふふふ……あははははは」
「笑うんじゃねえ!結構恥ずかしいんだ」
「か、堪忍や。でも、うふふふふ……ふふふ。なるほどええ認証文やな。確かに今、ウチは結構癒されたわ」
「ああ、もういい。それ以上しゃべるな。ってあれ? 変だな、オレ……」
そういうエイルの涙はまだ止まってはいなかった。それどころか流す涙の量が増え、視界が歪む程になっていた。まぶたから溢れた熱い液体が、ぼろぼろと頬を伝い、あごから、鼻先から床へ向かって落ちていくのが自分でもわかった。
それを見たエルデは、飛び込むように再び正面からエイルを抱きしめた。
「ええ年して、相変わらず泣き虫やな」
「うるさいよ」
「よしよし」
「よしよしじゃねえよ、お前はオレの母親か」
「年上なんは確かやな。ウチは何しろ三千歳やからな。母親っちゅうか、ご先祖様?」
「血は繋がってねーだろ」
「ふふふ。とりあえず元気やな。ええ事や。たぶん安心して、緊張が緩み過ぎたんやな。でも、もう大丈夫や。ご覧の通り、ウチの事は心配いらん」
その言葉のすぐ後に、エイルは頬に触れるものを感じた。
「え?」
一瞬の事だったが、エイルは確かに感じたのだ。
エルデの唇の柔らかさを。
「さて、と」
エルデはそうつぶやくとエイルから体を離した。その拍子に長い黒髪が翻り、エイルの鼻先をくすぐった。
エイルから離れたエルデは、じっとある方向を見つめていた。
確かめるまでもない、その先には《深紅の綺羅》が眠る硝子か水晶で出来た貯蔵槽があった。
エルデは空中に浮かべたままだった精杖ノルンを手にした。
「何をするつもりだ?」
エイルは思わず強い調子でエルデの後ろ姿に向かって声をかけた。
精杖ノルンを手にした瞬間、エルデの纏う空気が大きく変化したのを感じたのだ。
嫌な予感がエイルの脳裏をよぎった。エルデが今、間違いなく第三の目を開いた事がわかったからだ。
「《深紅の綺羅》……いや、アリスの王、クレハ・アリスパレスを囚われの姿のままにしておくわけには行かへん」
「何をするつもりだ? まさか……」
エイルは振り返ったエルデの顔を見て、そこで言葉を失った。
血の色に燃える第三の目を大きく見開いたエルデの顔は、さっきまでエイルに注いでいた優しい表情とはほど遠いものだったのだ。
(亜神……)
キセン・プロットから聞かされた、人類とは違う生物の呼称が頭をよぎった。
自分の言葉が、果たしてこの生物に対して通じるのだろうか?
そんな不安に満ちた疑問が当たり前のように湧き上がってくる。そんな厳しく冷たい表情がそこにあった。
「キセン・プロットの言うた事はおそらく嘘やない」
エルデは表情を崩さずにそう言った。
「それでもこれは、ウチがやらなあかん事や」
言葉遣いや声はエルデのままであった。だからエイルにはかろうじてそれがエルデであることがわかる。
しかしエルデの答え自体は、エイルの望むものではなかった。エイルとてエルデの考えには賛成だった。クレハ・アリスパレスという名を持つ女性をこのままの状態で放置する事は忍びない。
だがキセン・プロットの言葉が呪いのようにエイルの心にのしかかる。
《深紅の綺羅》をここから動かす事は、すなわち《黒き帳》の戒めとしての機能を消滅させる事になる。
それがたちまちどういう状況を生み出すのかはエイルにはわからない。エルデすらわからないと言ったのだ。
だが、エイルもエルデも、キセンの言葉が嘘ではないことは確信していた。
ここにこうして《深紅の綺羅》の体が存在している事が、《黒き帳》の動きを制限する結界になっているのだとキセンは言う。
クレハ・アリスパレスを触媒とした結界の崩壊は《黒き帳》を解き放つ。そしてその、エイルにとって未知の三聖は、名前を聞いただけでエルデの顔色を変える程の存在なのだ。
であれば、少なくともその戒めを今解いてはまずいのではないか?
エイルはそう思ったのだ。
さすがに今ならわかる。
キセン・プロットが「工房」と呼んだこの空間。エルデが「嫌な感じがする」と言って最後の一歩を踏み出す事をためらったこの場所は、巨大な一つの回路として機能しているのだ。
中央にひときわ巨大な丸い貯水槽があり、その中には《深紅の綺羅》がいる。それとは別に周りには無数の貯水槽があり、それらは磁器製と思われる様々な太さの管で互いに繋がっている。
それはもう回路と呼ぶよりは人体と言っても過言ではないものに思えた。《深紅の綺羅》を心臓として臓器と器官とを磁器性の血管でつないだ擬似的な人体の血液循環模型のようなものだった。《深紅の綺羅》の貯蔵槽に満たされている薄桃色の液体は全ての管を通じてこの場全体に張り巡らされており、それは間違いなく《深紅の綺羅》の血液を何らかの液体で希釈したものなのだ。
《深紅の綺羅》を心臓とする擬似的な肉体を結界化したもの……それがこの「キセン・プロットの工房」の正体と言えた。
そしてキセン・プロットは自分自身が作り出したその結界の虜囚とも言えた。
「囚われ人、か」
エイルは小さくそうつぶやいた。エルデはその言葉に反応してエイルを見たが、何も言わず、ただ小さく頷くと目を伏せた。おそらくその一言で、エイルの言いたい事が伝わったのだろう。
心臓であるクレハの体、すなわち回路の核をなくすということは、その結界の無効化と同義だということはエイルでもわかった。
「さてさて。時間も無いし、はじめよか」
エルデは顔を硝子の貯蔵槽に向けた。
「鬼が出るか、蛇が出るか」
そう言ってまっすぐに《深紅の綺羅》を見つめるエルデを見ると、エイルにはもう、かけるべき言葉が見つからなかった。
エイルの考えている事など全てわかった上で、それでも敢えて行おうと言うのだ。残り少ない亜神の一族としてのエルデの心情はエイルもわかった。エイルがエルデの立場であれば、迷うことなく同じ事をするだろうと思った。
「言うとくけど、責任はとられへん。けどどちらにしろ、ウチは同族をこのままにしておくわけにはいかへんのや」
エルデはそう言うと手にした精杖ノルンを正面に突き出すように掲げ、そして目を閉じた。
シグの力を借りて輻輳させ、威力を増幅したという治癒のルーンは上手く作用したのだろう。本人がエイルに告げたように、その立ち姿には少し前の弱々しい雰囲気は微塵もなかった。服の破れや、染まった血の跡がなければ、数時間前の出来事は夢だと思ったに違いない。
ほんの少しの間の沈黙の後、エルデは目を伏せたままでルーンの詠唱を始めた。
それはいつもの短い認証文だけのルーンではなかった。いや、よく聞けば、認証文だけのルーンをいくつもいくつも組み合わせているのだという事がわかった。
詠唱までの短い間は、これから行う作業の為に必要な複雑なルーンの構築を行っていたのであろう。
例によってルーンが発動する度に空中には発光する立体精霊陣の帯が生成され、無数のそれらが詠唱者であるエルデの周りをぐるぐると回転し始めた。
ともすれば禍々しさを感じるエルデのルーン詠唱だが、その時は違った。エイルは初めて、光の帯に包まれるエルデの姿を心から神々しいとさえ思っていた。
そして思わずつぶやきが口から漏れた。
「亜神……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます