第六十四話 夢と希望 1/3
「ゼプスは夢」
薄茶色の髪の少女が微笑みながら涙を流している。
首のあたりで切り揃えられた髪が、黄色い朝陽を透かしてふわりと揺れ輝く。
「ミュインモスは希望」
きめの細かい、張りのある褐色の肌。
若葉を溶かし込んだような明るい緑色の瞳。
「それらはルーンで鍛えられた羽のように軽い短剣」
少女はとても小柄だ。
だが、その笑顔は母親のような慈愛に満ちていた。
「どちらも妖剣」
ゆったりとした、そして鮮やかな黄色の服を身に纏った少女。
今その少女の大きな瞳から、涙が溢れた。
溢れた涙はなめらかな頬を伝い、丸いあごの先からぽつりと落ちていった。
「お前は夢を、その手でしっかりと掴むがいい」
少女はそう言って手を伸ばした。
「私はこの胸に、この両腕に希望を抱こう」
少女の顔を知っていた。
そしてその笑顔も。
流れる涙も。
その鼓動すら。
小さな体に流れるぬくもりさえも。
「夢と希望はいつか繋がる。二つは一つになり、光を導くだろう」
視線はその小柄なダーク・アルヴの少女が落とした涙の後をたどった。
漠とした暗い闇に包まれた足下に、虹色の滴が落ちていく。
エイルは少女の名を知っていた。
『……さま』
少女が遠ざかる。
闇を背景に、微笑みながら。
それはいつしか寂しげな笑顔になっていて、だんだん小さくかすんでいく……
『ラシフさまっ!』
【なんでやねんっ!】
『え?』
エイルは我に返った。
ぼんやりとした灯りが所々に灯っている。
だがそれでも辺りは薄暗く、頬にあたる床が冷たい。どうやらエイルは床の上に俯せの状態で意識を失っていたようだった。
覚醒に少し遅れて、甘い独特の匂いが鼻腔をくすぐる。
それに続いたのは激痛だった。
「くう」
起き上がろうとして無造作に左手で体を支えた瞬間だった。
思わずそのまま倒れ込んだ。
そしてその痛みが全ての記憶を思い出させた。
エイルは倒れ込んだままの格好で目を閉じた。
夢の中で、エイルはとても心地よい気持ちでいたはずだった。少しだけ悲しい気分も混ざってはいた。しかしそれは決して慟哭を誘うような類の感情ではなく、暖かい布団から抜け出さねばならない冬の朝にも似た、穏やかな寂しさと形容すべき感覚だったのだ。
目を閉じたまま、エイルは耳を澄ませた。
物音はしない。
強いて挙げるならば骨と血管を伝わってくる自らの心臓の鼓動だけであった。もちろん耳で聞こえてくるわけではない。だが同じ事だった。
全ての感覚が、この広く薄暗い部屋に存在しているのが自分一人であることを告げていたのだ。
現実に戻ってきていた。
このまま目を閉じていれば、また優しい夢が見られるというのなら、そのまま二度と目覚めなくていいとさえ思う過酷な現実がそこにあった。
だが……
エイルは意を決してまぶたを開いた。
それでもやらねばならないのだ。
現実と向き合い、受け入れ、自分が今できる事を。
エイルはゆっくりと顔を上げた。
視線の先に「それ」はあった。
覚悟をして顔を向けたつもりだった。だが「それ」を目の当たりにすると一瞬で体中の血が逆流するような感情に襲われたのだ。
そこには、エルデ・ヴァイスの遺体がそのまま横たわっていた。開いたままの目に命の気配はない。ただうつろな表情が空を向いているだけであった。
エイルは頭を振って気を落ち着かせた。
体が動くという事は、キセンが発動した精霊陣の効力が既に消えていることを示していた。
どれくらい意識を失っていたのだろうか。
窓も何もないこの部屋では時間がわからない。
エルデの体はもう冷え切っているのだろうな。
そうだ、ティアナの元へも急がねばならない。
エイルはそんなことを考えながら、左手をかばうようにゆっくりと上体を起こした。
【あんまり、じろじろ見んといて】
『仕方ないだろ。見ないと何もできないじゃないか』
【そうは言うても、誰でもこんな情けない姿、人前に晒しとうないやろ?】
『そうだな……って、え?』
エイルは思わず辺りを見渡した。
【ウチらの他には誰もおらへんわ】
『え? えええええええ?』
【ああもう、ホンマにやかましいやっちゃな】
『エルデ? お前、エルデなのか?』
【はいはい。ラシフさまやのうて悪うございました】
『いやいやいやいや』
【まあ、とりあえず礼を言うとく。こうして居られるのは幸運やない。完璧にアンタのおかげやからな】
『オレのおかげ?』
【生命に関わる程の急激で重度の肉体的損傷が、ウチの『心』を元の入れ物に飛ばした要因やな。そんでもっておあつらえ向きに元の入れ物はウチの体のすぐそばにあった】
『入れ物って……オレのことかよ』
【他に誰がおるねん。もっともアンタの体で覚醒したんはついさっきやけどな】
『亜神って、そんなことが出来るのか?』
【いや、普通に考えたらたぶんでけへんやろな。ウチの場合はたまたまや。そもそも亜神にとっては致命傷やないから、これが他の亜神やったらあのままあの中に『心』も留まってたはずや】
『あれで致命傷じゃないだって?』
エイルは改めて目の前に『転がっている』エルデの亡骸を見た。
背中から入り、腹を突き破る程に深々と刺さった精杖。血溜まりに浸った体。そしてどこにも焦点を結ばず、開かれたままの瞳……。
この状態から助かる人間などいるはずがなかった。
(いや。人間じゃない……から、助かるのか?)
【だからあんまり見んといてって言うてるやろ!】
『あ、ああ、スマン』
【アンタのおかげやって言うたんは、アレや。アンタはあの時とっさにウチを突き飛ばしてくれたやろ?】
エルデに言われてエイルは記憶をたどった。
何の前触れもなく背後で急激に殺気が立ち上がったのを感じたエイルは、その殺気の向かう先がエルデの背中にあると一瞬で判断したのだ。そしてその道筋をずらす為、つまり飛んでくる精杖を避けようとしてエルデを突き飛ばした。
いや、正確に言えば突き飛ばそうとしただけだった。
ほんの少し間に合わなかった。精杖は目標に達し、キセンの目的は成されたのだ。
だからこそ、今こうしてエルデ・ヴァイスは目の前に横たわっている。
『でも……』
【間に合うたんや。ほんの少しやったけどズレたんや】
『ズレた?』
【精杖はウチの心臓を外れた】
キセン・プロットの言葉をエイルは思い出した。白木で心臓を貫く……それが亜神を滅する方法であると。
【正確にはニアレーで燻した白木の剣、やな。もちろん先が尖った物やったら精杖でも何でもええんやけど。要するにそういうもんで心臓を貫けば、即死する】
エイルは何も言えなかった。
エルデ・ヴァイスの体は、エイルからすればどう見てもその「即死体」以外の何物でもなかったからだ。
『これが致命傷じゃないのか』
【修復できる】
その言葉を聞いたエイルは、その場に座り込んだ。
【おいおい、どないしたんや。あ、そうかケガしてるんやったな】
「は……はは……ははは」
力の入らない笑い声が、音としてエイルの口から発せられた。
【おいおい、エイル】
『これが……』
【これが?】
『これが笑わずに居られるかよっ。エルデ・ヴァイスが生きてたんだぞ?』
【エイル……】
『よかった……本当によかった……まさか、夢じゃないよな』
エイルはそういうと、左肩をどんっと叩いた。
「イテテテっ」
精杖は三本発射されたのだ。一本はエルデに突き刺さったが、残りの二本はエイルの体をえぐっていた。かすめた程度ではあったが、それでも相当な傷を受けた左肩である。不用意な衝撃を与えて、ただで済むはずがなかった。
エイルは悲鳴をあげると激痛でうずくまった。
【アホ!】
『アホで結構。何とでも罵ってくれ。オレはこんなに嬉しい思いをしたことがない。痛いけど、すごく痛いけど……それよりも嬉しいんだ』
【アホ……ホンマにアホやな】
エルデは優しい声でそう言った。
その時、エイルはようやく気付いた。以前と違う事に。
頭の中に響くその声は、瞳髪黒色の少女の声であった。
それは当然と言えば当然だった。エルデの事を勝手に男だと思い込んでいた頃とは違うのだ。エイルは既にエルデの肉声を知っている。そんな当たり前の事がエイルにとってはとてつもなく嬉しい事のように思えた。
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