第六十一話 亜神を滅するもの 3/3
エイルの事よりも先にキセンの意識を精杖に移す事。それがエイルの戦術だった。
それは見事に成功した。
「あんなところに転がっていったのね」
貯蔵槽にぶつかって、そのままそこに横たわっている精杖スクルドを見つけたキセンは、エイルに背を向けると、ゆっくりとそちらへ向かった。
エイルはその様子を鋭い視線で注意深く追っていた。その時キセンがエイルを振り返ったなら、そしてエイルの表情を見たならば、エイルの思惑を感じ取っていたに違いない。
エイルの瞳はそれほどの殺意を宿していたのだ。
だが、キセンは自分の興味の対象に向かって直線的に移動していた。その時のキセンには、既に重傷を負っているばかりか、ルーンがかかって動けないエイル・エイミイという人間など存在していなかったのだろう。
何の迷いもない歩みで、キセンが一歩、また一歩と精杖スクルドに近づいていった。
エイルの鼓動は早鐘のように高まり、吐き気がこみ上げてきた。しかしそんな事にかまってはいられなかった。吊り上げた目はキセンの後ろ姿を瞬きもせずに凝視して……そして……
「ノルン!」
ひときわ大きな声で、そう叫んだ。
それはキセン・プロットがしゃがんで精杖スクルドに手を伸ばそうとした時であった。その時キセンはエイルと精杖スクルドを結ぶ直線上にあり、エイルには完全に背中を向けた状態であった。
エイルが精杖の名を叫んだ次の瞬間、「それ」はエイルの右手にあった。
同時にエイルの前方で二度、あまり大きくはない鈍い音がした。
それだけだった。それがその瞬間に起こったエイルの企てとその結果であった。
キセン・プロットの実験場とも言える広大な部屋にあるのはエイルの荒い呼吸音と、すすり泣く声だけだった。
エイルの作戦は成功した。
エルデがもし生きていたとしたら、完璧だと言ってくれるに違いない。
だが、今のエイルには喜びはない。当然ながら達成感などあるわけがなかった。
キセンを殺してもなお、エイルの心の中にはキセンに対する殺意がくすぶったままだったのだ。
精杖ノルンはエルデ・ヴァイスの声に反応する。
精杖ノルンはエイル・エイミイの声にも反応する。
そして精杖ノルンは空間を「跳躍」しない。
精杖ノルンは空間を「移動」する。
エイルが思いついた「手」はそういう事だった。
思惑通り、精杖ノルンが転がっていた場所にキセンはいた。ノルンと入れ替わるかのように床に横たわって。
エイルは右手につたわるぬるりとした感触を認めると、目を伏せた。
視界にあったキセンはもう動かなかった。
エルデと同じだ。
そしてこれもエルデと同様に、うずくまった体から大量の血が床に流れ出していた。
最初の鈍い音は、精杖スクルドが命令に反応してエイルに向かって移動する際に、間にあった「壁」を突き破った音。
二回目の鈍い音は、その「壁」が床に崩れ落ちた音だった。
「壁」とはもちろんキセン・プロットの体である。
命じられれば、ただひたすら直線的に主の下へ目では捉えられない程の高速度で移動する精杖ノルンは、間にある物理的なモノを意に介さない。キセンが文字通り岩で出来た壁であったならば話は違っていただろう。だが、人間の体程度の柔らかさではノルンの移動を妨げる壁の役にはたたなかったのだ。
エイルの作戦の成功の鍵は、キセンの胴体がエイルの右手と精杖ノルンとの間に引いた直線上に存在する事にあった。脚でも腕でもなく、胴体が、である。
体を動かせないエイルの右手の位置は低い。たとえ直線上にキセンが立っていたとしても、足をもぎ取る事しかできなかっただろう。
もちろんそれでも重体には違いない。放っておけば失血死するだろう。だがキセンはルーンを使えるのだ。即死させなければ、少なくとも意識を奪わなければ即座に反撃がある。
エイルは自分の命など惜しくはなかった。差し違えてもいいと思っていたのだ。
だが、出来れば生き延びていたかった。エルデをここにこのまま放置したくなかったからだ。自分の手で弔ってやりたかった。
だからエイルは生き残る必要があった。少なくともエルデを埋葬する間の命が欲しかったのだ。
キセンが作り上げた「エア」という特殊な空間でエイルにできる事は限られていた。そしてその限られた手段を有効に使い、目的を果たす事が出来た。
エイルがやり遂げた仕事は、誰も見ていないのだから誰にもほめられはしない。ただそれでも、エルデならばほめてくれるに違いないという思いは、彼の心をほんの少しだけ満たす事ができた。
おそらくキセンは何が起こったのか理解するまもなく絶命したであろう。
精杖スクルドはノルンに姿を変えながら横向きに飛んできた。
その動きはおそらく……いや間違い無くエルデがそう設定したのだ。エルデはノルンを取り出す時はいつでもまずは水平に持つようにしていたから、自分のその好みに合わせて調整したのだろう。
エイルは当然それを知っていた。だから利用したのだ。
問題はエイルの呼びかけに対し、果たしてノルンが反応するかどうかだった。だが、ジャミールの里で入り込んだ「エア」の中では眠りについていたエルデに変わってエイルがノルンを取り出す事ができた。
考えてみればジャミールの里が使う精霊石の多くは、族長であるラシフに《深紅の綺羅》が託したものだ。精霊石とは大まかに言えば術者の血を使って神痕(しんこん)と呼ばれる文字を記述する事により呪法やルーンが施されるものと聞いていた。
つまりそれは、キセン・プロットが《深紅の綺羅》の血を使って作り上げたルーンが使えないというこの空間と条件が酷似している。エイルはそう考えた。
だからエイルの作戦には、彼なりに裏付け、つまり勝算があったのだ。もちろんそれでも一か八かには違いない。
そしてエイルの計算通りに……キセン・プロットの体は腹のあたりでノルンによって無理矢理二つに切断された。断裁と言った方がいいかもしれない。おそらく切断という言葉で想像するような綺麗な分離ではないはずだった。細い木の棒が恐ろしい速度で腹に当たるようなものである。つまりはとんでもない力で内臓や肉や骨がぶった切られたようなものだ。およそ綺麗な傷口であるはずがない。
だが、もちろんエイルはキセンの哀れな骸に意識を向けてはいなかった。
正確に表現するならば、エイルは意識自体を保つ事が困難になりつつあった。
負傷による失血に寄るところが大きかったが、疲労と睡眠不足もある。何せジャミール一族が里を離れる事になった朝から、エイルの一日は終わっていないのだ。
「現世(うつしよ)」と呼ばれる普通の世界の時間では一ヶ月が経過していたが、「時のゆりかご」を経由したエイル達にとってはそれほどの時間ではない。だが、感覚的には二日程度は過ぎている感じがしていた。その間エイルが瞬き以外でまぶたを閉じたのはヴェリーユからハイデルーヴェンに向かう渡船の中のほんの数分だけだった。エルデは眠れと言ったが、あのような気が張った状況で眠れる程の精神制御力を持たなかった。
精神が興奮状態にあるという点では今の状況の方がより強いのは確かだった。だが、目的を果たしたというある種の安堵の気持ちは、肉体と精神の疲労を喚起するには充分だった。
それでもエイルは混沌に溶け込みそうになる意識に鞭を打った。早くエルデの亡骸に近づきたかったのだ。だが、キセンの精霊陣による「固定」はまだ解けなかった。
ルーンであるから永続性はない。解除される条件はいくつもあるが、どちらにしろ時間が経てばいつかは解ける事はわかっていた。
だがそれが「いつ」なのかがわからない。
負傷による衰弱と疲労、そして安堵に加え、そのどうしようもない事態が生む絶望が上乗せされ、エイルはついに抗う力を失った。
それはもはやこらえようとしても困難な状態にまで陥っていた。
いきなり目の前が真っ暗になったかと思うと、エイルはそのまま全ての感覚を失った。
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