第五十七話 深紅の綺羅(しんこうのきら) 4/4
「さっきも言った通りよ。私は《深紅の綺羅》の殺害に一切、関与していない。だから弁明と言う表現は正確じゃないわね。でも、この話を続ける前に、私からも一つ質問があるわ」
「何や?」
この申し出には、エルデは素直に反応して見せた。
「あなたはあの水槽の中の人間が本物の《深紅の綺羅》かどうかを敢えて尋ねないのね」
「そやな」
エルデの答えはそっけないものだった。
「あなたは《深紅の綺羅》と面識があるという事ね?」
だが、エルデは即座に首を横に振った。
「だったら、なぜ? 普通最初に確認しそうなものだわ。他の誰でもない、三聖の一人がこんなところにある水槽の中で死体になって浮いてるなんて、普通は信じないわ」
そう言うキセンの顔には生気が戻ってきていた。
「そうやな。間違い無いとは思うけど、言われてみたらその通りや。ほんなら念のために確認しとこか」
「確認?」
怪訝な顔をしたキセンには例によって反応せず、エルデは精杖の頭頂部に向かって声をかけた。
「エルデ・ヴァイスの名に於いて命ずる。出でよ、シグ・ザルカバード」
「え?」
キセンはエルデが口にした人物の名を知っていた。だからこそ我が耳を疑ったのだが、すぐに今度は目をも疑う事になった。
空中に、禿頭のアルヴの姿が浮かび上がっていたのである。
「話は聞いてたやろ?」
エルデは現れたシグに向かって問いかけた。
「あれは《深紅の綺羅》か?」
シグ・ザルカバードのエーテル体は丁度エルデとキセンの間に浮かんでいた。エルデとは向かい合っている格好だ。つまり、水槽を背にしていたのである。
だが、シグはエルデの問いに対して《深紅の綺羅》が浮かぶ水槽を振り返る事はしなかった。
「間違いありません。体を貫く精杖が『星を呑む獅子』と聞いて事の経緯を納得もしました。ただ……」
「ただ?」
「死んでいるという表現が正しいかどうか」
「どういう意味だ?」
「正確には入れ物である肉体は生きていると言えます。もちろん心臓は動いてはいません。しかし肉体を形成する細胞はまだ生きている、と言ったところでしょう」
「……血か?」
「左様です。《深紅の綺羅》の肉体は自らの血液の中にあって消滅せず、形を維持しているのでしょう」
「おおきに。詳しい話はまた聞くわ。この場所ではエーテルの消費が激しいやろし、長居は無用や」
エルデの言葉が終わると同時に、シグの姿はかき消えた。
エイルはシグの言葉よりもエルデの最後の一言が気になった。つまりこの場所がエアであることを思い出したのである。そのエアでエルデがルーンを使っていた事も。
「エルデ、お前はエアでルーンが使えるのか? だったらジャミールで……」
そのエイルの言葉をエルデは遮った。
「その話は後や。アンタの想像通り、今のウチならあそこでもルーンが使える。でも、あの時は無理やった。今はそれだけ言うとく」
そして再びキセンに向きなおった。
「本人を直接知る人間に確認した。改めて弁明とやらを聞こか」
「あなたは……」
今目の前で起きた出来事に声をなくしていたキセンは、それだけ言うとゴクリとツバを飲み込んだ。その先を続けるためには二、三度深呼吸をする必要があった。
「あなたは《真赭の頤(まそほのおとがい)》を眷属か使い魔にでもしてるっていうの?」
「はあ?」
「だって、
「ふん。そう言う情報源は持っているみたいやな。新教会から仕入れているってところか?」
「情報源は新教会だけじゃないわ。私はもう一人の
「え?」
キセンのその言葉には、さしものエルデも驚きの顔を隠せなかった。もちろん、《蒼穹の台》を知るエイルも。
さすがにそれは驚くべき情報と言えた。
「その様子だとこの話はまだ知らないようね」
「確かなんか?」
「私が見たわけじゃないから確かかどうかはわからないわ」
「誰が、いつ? いつだ?」
エイルは思わずそう問いかけた。
無理もなかった。現世の時間で一月ほど前に、ジャミールからヴェリーユへ伸びる「龍の道」と呼ばれる横穴ににた空間で、二人はその《蒼穹の台》に会っているのだ。
キセンの言う事が本当ならば、龍墓に入っているほんの少しの間に、ファランドールは何かが大きく変わってしまったと考えざるを得なかった。
「アプサラス三世が崩御するのと同じ頃よ。亡き者にしたのは《深紅の綺羅》の時と同じ人間、と言えばわかるでしょ。皮肉にも《蒼穹の台》は行方不明だと思い込んでいる《深紅の綺羅》の行方を尋ねに来てまんまと罠にはまってやられたそうよ」
「え? アプサラス三聖の崩御って……」
エイルが口にしかけた言葉を、エルデは精杖を目の前に付き出して制した。
エイルの疑問はエルデも当然持ったはずである。なぜならエイル達が《蒼穹の台》と最後に出会ったのは、アプサラス三世が崩御してしばらく経った後の話だからだ。
キセンの持っている情報は、時系列に矛盾がある。
考えられる理由は二つ。
死亡時期についての情報が明らかに間違っているのか、情報自体は正しいが、真実ではないか、である。要するに後者は《蒼穹の台》が死んだふりをしているという事になる。
だが、エルデはそれよりも殺害したという相手に興味があるようだった。
「三聖を次々と亡き者にするサミュエル・ミドオーバっちゅう奴は、そんな事をして、いったい何をするつもりなんや?」
キセン・プロットとサミュエル・ミドオーバとの間に何らかの繋がりがあるのは、もう間違いがなかった。その口ぶりから察するに、エルデはキセンの情報は誤報であると結論づけているようであった。ここで《蒼穹の台》の情報を問いただすよりもその向こう側にある人物について知る事の方がよほど重要……エルデはそう瞬時に切り替えたのだ。
事実サミュエルが自ら精杖をその背中に突き立てて殺害した《深紅の綺羅》の体が、キセンの研究施設に存在しているのである。そこに繋がりがないと考える方がおかしいと言えるだろう。ましてや罠とはいえ三聖を手にかける事ができる人物である。かつてはエルデ自身が「信用できぬ人間」と評したその危険な存在についての情報は多い方が良かった。
「言え、キセン・プロット。お前はミドオーバ近衛軍大元帥に何を頼まれてるんや?」
キセンはそこで唇を噛むと、エルデを睨み付けた。
「それをさっきから言おうとしているんじゃない! いい? 私は頼まれたからやってるんじゃないのよ。死にたくないからここでこうやってこの体を生かしているのよ」
「どういう意味や?」
「《深紅の綺羅》の体を、私がこうやって維持しているのよ」
エルデとエイルはお互いに顔を見合わせた。
「死ぬのは私だけじゃないわよ。《深紅の綺羅》の肉体が滅びたら、いったい何が起こるかわかってる? いえ、わからないでしょうね。きっとわかっているのはほんの一握りの人間だけ。いい? 言うわよ? 《深紅の綺羅》が消滅したら、ファランドールから人間がいなくなるのよ。どう? こんな話、信じられないでしょ? でも、ほぼ間違い無いわ」
そう叫ぶキセンの目には、いつの間にか涙がにじんでいた。冗談や強がりではなく、心の底からその言葉を絞り出しているかのようだった。
「だから、あなただったら、この話を信じると思ってここに案内したのよ。打開の為に役に立ってくれるかも知れないって思ったのよ。わかる? 私の気持ちが?」
精杖の戒めがなくなっていたキセンだが、この時になってようやく立ち上がった。そしてエルデに向かって一歩、いや二歩踏み出した。
「不幸なのか幸運なのかわからないけど、私が機会に恵まれているのは間違いないわ」
「何の話や?」
「偶然もここまで行くと仕組まれたものかと勘ぐってしまう程よ。まさか本当にあなたのような存在に出会えるなんて……」
「さっきから何をごちゃごちゃと……」
キセンはエルデに皆まで文句を言わせなかった。
「私を普通の人間と思わない方がいいわよ。だって私はあなたが何者か知っている。だから……」
そう言うとさらに一歩進んだ。そして精杖を持つエルデの右手を両手で握りしめた。
「だから、助けてよ。お願い……」
それだけ言うと、キセンはその場に膝を突いて崩れ落ちた。
エイルの行動は早かった。慌ててキセンの側に走り、前屈みになっているキセンを助け起こした。
「教えて下さい。あの体が滅したら、いったいどうなるって言うんです?」
「結界が、消えるのよ」
「結界? この部屋のか?」
これはエルデだった。
キセンはうつむいたままでゆっくり首を左右に振った。
「何の結界や?」
「《深紅の綺羅》が封じているのは……《黒き帳(くろきとばり)》よ」
「え?」
「《黒き帳》を《深紅の綺羅》が結界に閉じ込めていたのよ。その結界は彼女が死ぬと消滅するの。だからサミュエル・ミドオーバは肉体だけを生かしておくよう、私に頼んだのよ」
キセンのその言葉を聞いたエルデの手から、弧を描いてゆっくりと精杖が離れた。思わず精杖を握る手を緩めたのだ。それはつまり、エルデが大きな動揺を受けた事を意味していた。
普段なら手を離しても空間に留まっているはずの精杖ノルンはしかし、主の制御を完全に離れ、重力の法則に従って床に落下した。
大きな音と共に床にぶつかったノルンは、辺りのタイルを粉砕し、弾むこと無くそのまま床にめり込んだ。
無言の三人は、その轟音が壁を反射し、やがて広い空間に吸い込まれて消えていくのを聞いていた。
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