第五十五話 無意識の暗殺者 1/7

 エイルはいつの間にかエルデの両肩を掴んでいた。

 自分がどんな顔をしているのか……わからなかった。そして何を口にすればいいのか、それすらも。

「落ち着け」

 そんなエイルの肩を、エルデはそっと叩いた。

「何やねん、その顔は……男の子がそんな情けない顔したらアカンやろ?」

 エルデはそう言ってエイルをなじった。それはいつもの事だ。だがその声には普段のエルデらしからぬ柔らかな響きがあった。

 エイルは自分が唇を噛んでいることだけは自覚していた。そしてエルデが、精一杯自分を落ち着けようとしてくれている事も。

 怒りに我を失わなかったのは、そのエルデの声があったからに違いなかった。

「落ち着け」

 肩を掴んだ手の力を抜こうとしないエイルに、エルデはもう一度そう言った。


「これが落ち着いていられるかよ!早くネスティ達のところへ行かないと。このことを教えないと」

 エイルは耳から聞こえる自分の声がずいぶん上ずっているのを感じた。エイルはその声を聞いて初めて、自分が今いったいどういう顔をしているのかを理解した。

 間違い無く、泣き出しそうな顔をしているのだろう。ベソをかきそうな顔と言われる、あの顔だ。

 だが涙はまだ流れてはいない。なぜなら必死でこらえていたからだ。怒りに我を忘れなかったのは、あるいはそのせいだったのかもしれなかった。


 僧正の言葉はエイルの知っている事柄の全てを、有機的につなぎ合わせていた。

 近衛軍に於いてサミュエル・ミドオーバの弟子とされ、若くして特別に王女付きの護衛官に抜擢されていた人物。

 サミュエル・ミドオーバを師と呼び、尊敬の念を持っている人物。

 王女エルネスティーネに自らの命を捧げ、表裏なく献身する人物。

 強力なキャンセラ能力を持つ人物。

 エルネスティーネのすぐ側に居る人物。

 そして、エルネスティーネが何のためらいも疑問も疑いもなく、背中を、首筋を、そして寝顔すら見せる相手……。

 それら全ての要件を満たす人物はこのファランドール中探してもたった一人しかいないはずだ。


「オレは嫌だ」

 エルネスティーネが傷つけられるのも、ティアナが仲間を傷つけるのを見るのも。

 そしてもちろん、そのティアナが間違い無くアプリリアージェの手にかかる事も。

 エイルは胸に渦巻く全ての感情をただ一言に凝縮してエルデにぶつけたのだ。

 エルデにはそれだけで通じる。いや、何も言わなくても通じているはずだと信じながら。

「あいつらは仲間なんだぞ。冷静になんて、なれる訳がないだろ!」

「あかん、怒りで興奮するな。押さえろ、エイル」

 エルデにそう言われて、エイルはいつの間にか体全体が熱病にかかったように熱くなっているのを感じた。だが、本人よりも先にそれに気付いていたエルデは、すかさずエイルの右手の甲を押さえた。

「まだ時間はある。僧正がキセンのとこに来た意味を考えるんや。あいつらはティアナを『使う』為に、何か準備が必要なんや。そしてそれはキセンの持ってる『何か』やとウチは思う。それが手に入るまで『切り札』は使わへんはずや。いや、使われへんのかもしれへん。そもそもネスティ達の居場所自体、あいつらに特定できてへんのは間違いない。たぶん、ううん、きっと猶予はまだある。ウチらは最善の手を打つ為に、とにかく情報を集めるべきや。ええか?ここは逆転の発想で、これは絶好の機会やと考えるんや。そもそもティアナの事を教えてもろた事には感謝してもええくらいやろ? そやからこれを逃す手はあらへん」

 確かにエルデの言う通りだった。

 ここで僧正の話を聞かなければ、知らぬ間に全てが終わっている可能性があった。アプリリアージェ達と再会した時、そこには笑顔の出迎えはなく、血に染まった短剣と、かつて仲間だった「もの」が、それも複数転がっているだけだったのかもしれなかった。

 そもそも治外法権が存在するという建物に捜索協力の為にやって来たという事は、相手もネスティ達の居場所をまだ知らないという証明なのだ。


「それに怒りにまかせてここであいつを殺しても、意味はない。あの僧正はハイデルーヴェンの駐在役なんやろ?つまりここに、あいつに情報をもたらした人間は別におる。要するに追っ手や。実行部隊はそっちやろな。そやからのこのこやってきた情報源をみすみす潰すような愚かしい事も絶対にしたらあかん」

 エルデの言葉を聞きながら、エイルはこみ上げてきた怒りの炎をなんとか押し戻す事に成功した。体の中で最も熱くなっていた右手の甲からも熱が引くのがわかった。

「ついでに、気休めを一つ言うとく」

 エルデはエイルが落ち着いてきた事を手の甲の熱で確認すると、そう付け加えた。

「気休め?」

「リリア姉さんの事や」

「え?」

「ウチが観察したところ、リリア姉さんはたぶん、ティアナを全面的には信用してへんと思う」

「まさか?」

 エイルはその言葉で怒りが一気に吹き飛んだ。

 だが、エルデは真剣な顔で首を横に振った。

「さっき、ウチも言うたやろ?思い当たる節があるって」

 確かにエルデの言うとおり、エイルがティアナにたどり着くよりも早く、エルデには答えがわかっていたようだった。

「どういう事だよ?」

「ウーモスで、ティアナにウチが触られた時の事、覚えてるか?」

「ああ」

 もうずいぶん以前の事のように思えた。ウーモスを脱出する時にうっかりティアナがエルデに触れたのだ。その時の会話はエイルも覚えていた。

 エルデが引き合いに出したのは、サミュエル・ミドオーバというシルフィード王国きってのルーナーが、エルデよりも相当回復に時間がかかったという話だった。

 エルデはティアナのその言葉に違和感を覚えて、エイルに確かこう言ったのだ。

『サミュエル・ミドオーバを信用してはいけない』 と。


「おそらく、リリア姉さんもウチと同じ事を考えたはずや。さらにジャミールでアプサラス三世崩御の知らせを受けた時、姉さんは状況証拠を構築したと思う」

「状況証拠?」

「アプサラス三世が病死なんかやのうて、実はサミュエル・ミドオーバ大元帥に暗殺されたっちゅう事の、や」

「まさか」

「まさか、とか言えへんはずや。少なくとも今は」

「あ……」

 今、そのサミュエル・ミドオーバがエルネスティーネの命を亡き者にしようとしているという話を聞いたばかりだったのだ。

「でも、何の為に?」

「そこまではわからへん。でも、一枚岩に見えたシルフィードに何かが起こってる。いや、もうずっと前から起こってたっちゅうことはわかる。芽はあった。それが密かに育ってた。誰も知らんうちにな。で、や。それに気づき始めたリリア姉さんが、その反逆者の弟子を頭から信用する程うかつな人間やと思うか?」

 エイルには返す言葉がなかった。

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