第五十一話 教授長キセン・プロット 3/5
その話にはエルデも積極的ではないが賛同していた。
歴史上、不思議な人物、すなわちファランドールの常識に照らすとあまりに風変わりな人物が時々存在するのだとエルデは言った。そしてそれはフォウの人間なのかもしれない、と。事実そういう噂も昔から少なからずあるのだと言う。
理解出来ないものは「あの世」のものとする風潮はファランドールもフォウも似たようなものだとエイルは苦笑しながらその話を聞いていたが、エイル以外の『異世界人』の可能性を、それも極めて強い可能性をエイルはキセン・プロットに対して感じていたのである。もちろん、名前に反応して、である。
とは言えエイルはキセン・プロットという名前の人物を知っているわけではなかった。そうではなく、その名前は「信号」なのだと思っていた。いや「合図」と言った方がいいかもしれない。
それはその名前を知っている人間にはピンと来る、そういう物なのだ。
キアーナが居た手前、エルデにその事を説明する暇がなかったのが悔やまれたが、どうやらエイルは自らの期待が大きすぎた事を認識し始めていた。
注意深くキセン・プロットなる人物を観察した。だが、エイルは記憶の隅という隅をつついてもその顔をほじくり出す事が出来なかった。
だが……失望はしなかった。確信はそのままだったのだ。
キセン・プロット。
エイルにとっては、その名は、意味深い、いや深すぎる名前だった。本人でなくともその親はどうだろう? そのさらに親は?
「さて、着きました」
しゃべり続けていたプロットは、一方的に話を切り上げると目的地に到着した事を告げた。
キセンは回廊に掲げられていたハイデルーヴェンの歴代領事官の肖像について、古い物はその絵の具の成分が悪くてそろそろ褪色し出しており、自分にはそれを防ぐ手立てがあるが、誰も取り合ってくれず失望している事を述べ、しかしその画期的な手法には自信があり、是非聞いて欲しいと言いつつ、その解決策とやらの三つ目の選択肢について語り始めたところだった。
褪色を防ぐ為に塗布する上薬の鉱物とニカワの調合割合についてプロット教授長の持つ私見をこれ以上聞かなくていいのだと知ると、二人はほっとした表情になった。
エイル達は回廊をおそらく大きなコの字型を描いて歩いてきたようだった。
相当広い建物のようで、歩き出して優に五分以上経っていた。
階段は通っていない。したがって同じ階層、同じ回廊がそれほどの長さを持っているということである。
「どうぞ、お入り下さい」
回廊から奥まったところにある扉を二人に指し示した後、キセン・プロットは付き従っていた僧正に合図をした。三人の僧正のうち、二人がそれぞれ扉のとってに手をかけ、その両開きの扉を開いた。
「どうぞ、お先にお入り下さい。警戒は無用です。大丈夫。罠などございませんよ」
エルデが警戒をしている事はプロット教授長も当然認識しているに違いなかった。だから敢えてそう言って入室を促した。
エイルは部屋を一通り眺めるとエルデに小さく呟いた。
「大丈夫だ。入ろうぜ」
既に何度か既述しているが、エイルにはエルデにはない力があった。
殺気を感知する力である。それはフォウに居た時代から持っていたエイルの特殊な力である。エルデはその事をもちろん知っている。
つまり、エイルの一言でこの部屋に殺気を持っているような人物は居ないという情報を共有した格好である。
エルデはエルデで人間の存在、そしてルーンや結界を感知する。
エイルにはわからない事とエルデにわからない事がある。その二人が揃えば警戒精度は極めて高くなる。
エルデはエイルのその言葉を聞くと、扉の脇に立つプロットに一瞥をくれた後、部屋に一歩を踏み入れた。エイルはそれを見て遅れぬように自身も部屋に入る。そもそも服の裾を捕まれているエイルは、エルデに引っ張られる格好になるのだ。
エルデは最初の一歩こそゆったりとした足取りだったが、部屋に入り込んだあとはそのまま二歩、三歩とずんずん入り込んだ。
開かれた扉の向こう側には大きな机と、そして背もたれの高い肘掛け椅子がある。椅子は後ろ向きに置かれていた。見えない部分の細かい意匠は当然ながら不明だが、背面にはこれと言った特徴もないことから、頑丈そうなだけの素朴な作りの椅子のようだった。
机にもおよそ装飾と呼べる物がない。教授長という立場の人間が使う机ならば、それなりの厳めしさがあってしかるべきだとエイルはここでも先入観を持ち出してしまっていたが、その部屋の調度はすべて装飾性というものとは無縁のような佇まいで、実用一点張りといったものばかりであった。
あの待合に使われている図書室のような雑然とした部屋と比べると、この部屋は想像以上にこざっぱりしており、しかも広大であった。
壁一面に書架があり、研究者らしくそこは書物で埋まっていたが、きちんと整頓されており、検索性・閲覧性がともに高そうだった。
そんな無人の部屋を興味深げに見渡している二人の背後で扉の閉まる音がした。
振り向くと、しかしそこにはキセン・プロットの姿はなかった。もちろん三人の僧正の姿もない。
エイルが思わず腰を落とし、妖剣ゼプスの柄に手をかけた時、背後、つまり大きな机が置かれた方向から声がした。
「ようこそ、私の研究室に」
女の声だった。
二人ははじかれたように同時に振り向いた。
果たしてそこには背の高い肘掛け椅子に深く腰をかけたデュナンの女が座っていた。
忽然と現れた様に思ったが、誰も座っていないと思っていた椅子は、実のところ大きすぎて、後ろ向きになっているとその女の姿は見えなかっただけのようだった。
「おい」
「いや、確かに誰も居らんかったはずや」
エイルとエルデは小声でそんなやりとりをした。エルデはエーテルの流れが見えるのだ。だから人間がいれば気配を見落とすはずがなかった。つまり、椅子に座っている女は、こことは違う場所から突然現れたという事になる。
しかし……。
「初めまして」
二人の混乱をよそに、女はそう言うと椅子から立ち上がった。
「私がキセン・プロットです」
「え?」
エイルは思わず入ってきた扉を振り向いた。誰も居ないのはわかっていたのだが……。
「ごめんなさい。だますつもりはなかったの。でも貴方たちが私の事をまったく知らないと言う事はこれでわかりました」
「手の込んだ歓迎やな」
エルデはそう言うと目を細めてじっとキセン・プロットを名乗る女を見つめた。
肘掛け椅子の横に立つデュナンの女は、年齢は三十がらみであろうか。肩までの長さの暗金色の髪と灰色の瞳を持っていた。
エルデがそんな表情で相手を見る時は、機嫌が悪く相手に対して嫌悪を感じている場合だと言う事をなんとなくエイルは理解していた。つまり今、エイルは怒っているのだ。
もちろん、一杯食わされた事に対してであろう。
特に思惑がない限り、エルデは感情をあまり隠さない。いや、感情表現を選んで、敢えてわかりやすい態度をとる事が多い。その方が相手の本心もわかりやすいというのが彼女の理屈だったが、相手からは微塵も殺気を感じないこの場合はどうだろうかと、エイルは思っていた。
だが、エルデは意外な事を口にした。
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