第四十一話 繋いだ手 1/2

 きわめて当たり前の事ではあるが、こちらの姿が相手には見えないという事は実に便利な事だと、改めてエイルは思っていた。

 逃げる時には特に。

 なにせ敵に見つかる事に怯えながら物陰から物陰へ移動する場合に、細心の注意力を要求されたり、神経をすり減らす事が無い。目的地に向かってただ最短距離を走ればいいのだ。

(まったくここは、便利な世界だ)

 ルーンという力の存在……エイルが居た異世界「フォウ」では一口で魔法と呼ばれている、合理的・論理的な価値観では解明できない不思議な力……が、ここでは当たり前のものとして存在している。

 そして今、こうやって手をつないで一緒に走っている少女は、その不思議な力を事も無げに操る使い手、それも大いなる使い手なのだ。

 エイルは自分の姿が自分でも見えなくなっている状態になかなか慣れず、とまどいつつもそんな事を考えていた。

(でもエルデをフォウじゃどう呼べばいい?『ルーナー』じゃ通じないしな。いろいろ説明も面倒だ。だとすると、やっぱり『魔女です』って言えばいいのか?)

 とはいえフォウの価値観で『魔女』という言葉を当てはめるのにも抵抗があった。エルデは箒に乗って空を飛べるわけでもなく、妙な瓶で怪しい材料を煮詰める訳でもない。つばが広い、先の尖った帽子も被ってはいないし、いかにもな黒いマントに身を包んでいるわけでもない。

(いやいやいや)

 そこまで考えてエイルは己の価値観の貧困さを自嘲した。

 ただ、先が尖った帽子と怪しげな黒い服は、神秘的で美しい容姿を持つエルデにはとても似合いそうだとは思った。

(服と言えば……)

 そもそもエルデは今、裸足で、着ているものは怪しい魔女の服どころか男物のダブダブの寝間着のままのはずだった。その上にラシフの髪をルーンを使って織り込んだマントを羽織っているのだ。


「ああもう!」

 エイルがそんな事を考えていると、突然エルデが癇癪を起こした。

「この寝間着、ダブダブでめっちゃ走りにくい!」

 その声を聞いて、エイルは思わず笑いがこみ上げてきた。

「何がおかしいねん!」

 小さく漏れた笑い声に、エルデが耳ざとく反応した。

「いや……」

 さっき聞いた話では、今は二人とも絶体絶命とも言える状況のはずだった。だが、エルデの言葉を聞いていると、むしろ緊張からはもっとも遠い状態にあるような気がした。そして信じたくはないものの、エイルはそんな今の状況を楽しんでいる自分に気付いていた。

「オレが思うに、あの姿は意外に似合ってたぞ。正直に言うと、お前がその服に着替えてきた時は不覚にもちょっとドキッとした」

 だからエイルはそう言ってエルデをからかってみた。悲壮感のある話をするよりも、今はそんな軽口を叩いていたい気分だったのだ。

 エイルの軽い挑発に、エルデはしかしすぐには返してこなかった。そしてエイルが不安を覚え始めた頃に、ようやく聞こえにくい小さな声でつぶやくのが聞こえた。

「――か?」

「はあ?」

 お互い走りながらの会話である。小さな声は聞き取りにくいのだ。空気の中の振動をかなり細かく感じ取れる風のフェアリーの能力があればたやすい事なのだろう。アプリリアージェ達ル=キリアの面々ならいざ知らず、あいにくエイルには風の属性の力はない。

「ホンマかって聞いたんや!」

 ふてくされたような声で、エルデがそう言い捨てた。はっきりした発音で、聞き逃す事はむしろ不可能なくらいだった。

「え?」

 思いもかけないエルデの言葉に、エイルは思考力をしばし失った。言葉の意味するところがわからなかったのだ。エイルがエルデに求めていたのは、『似合ってる訳ないやろ、人をおちょくってんのか?』という方向の切り返しだったのだから。

「ああ!でも……」

 エルデはエイルの言葉を待たず、また独り言に戻った。

「やっぱり先にちゃんとした服だけでも調達しとくべきやったなあ。というか、ティアナとネスティの帰りが遅すぎや。リリア姉さんがちゃんと近くの店で手早く済ませろって釘を刺してたのに、まったく使えん連中や。とっくに成人してる連中ばっかりやのに、まったくもって子供の使いやな」

「そうだな……」

 そういって曖昧に相づちをうったものの、エイルは確信していた。エルネスティーネの性格を考えると、エルデの為に一所懸命なはずである。一番エルデに似合いそうなものは何か?黒髪と黒い瞳に映える色はこれでいいのか?旅の中で動きやすいか?保温は?通気性は?などと、ほとんどどうでもいい点にまで一つ一つ厳しい吟味をしているに違いない。そうやって夢中になっているのに反比例して時間が経つ事への関心が希薄化しているのだろう。

 いや。それはちょっとエルネスティーネやティアナを買いかぶり過ぎで、単に買い物という行為が楽しくて、時間の事はすっかり頭から抜け落ちているだけなのだろう。きっとエルデのいう事が正しいのだ。エイルの知る限り、「女同士の買い物」という上の句に対して「手早く済ませる」という下の句が続く事はあり得ない。どうやらそれはフォウでもファランドールでも同じようだった。

 エルネスティーネとエルデが初めて対面した時には二人の間に妙な緊張感を感じたが、実のところは旅の道連れとして、もう三ヶ月にもなろうかという間柄である。エルデの方ではエルネスティーネをなぜか多少苦手に思っているような節が見られたが、決して嫌っているわけではない。それにエルネスティーネの方はエルデに対して好意を持っているとエイルは認識していた。

 それになにより、王女というにはやや不釣り合いとも思える妙に世話好きな性格が見え隠れするエルネスティーネの事である。エルデに気に入ってもらえるものを買おうと張り切っている事だけは間違いはない。エイルとしてはそれを考えると二人を責める気持ちは湧いてこなかった。


「そう考えると」

「は?」

 今度はエイルの独り言のようなつぶやきに、エルデが反応した。

「いや。リリアさん、買い物の人選を間違ったのかもしれないな、って。まあ結果論だけどさ」

「まったくや。ウチが思うにネスティは服一着選ぶのに二時間はかけるタイプやな。帰ってくるのは夕食前かもしれへんな。ああ、こんな事やったらファルに頼んだ方が良かったなあ。あ、でも下着とかあるしなあ」

「そっちはティアナがいるだろ」

「ティアナか……」

「ティアナだと何か問題でもあるのか?」

「ティアナはアルヴやから、ウチらの寸法の見当がつかへんような気がする」

「寸法?」

「なんでもない、このスケベ!」

「いやいやいや。違うだろ」

「せめて下着だけでも着ときたかったなあ……」

「……」

「今、いやらしい想像したやろ?」

「してない!」

「姿も見えへん事やし、いっそこのまま先に服屋に寄って、適当な服を失敬しよか」

「それはやめとけ。っていうか、賢者がそんな事したらマズイだろ?」

「それもこれも師匠が悪い。服、着せとけっちゅーねん」

「確かに……。でも長期間安置する場合は皮膚に布が触れている状態は良くないからって話だったろ」

「今、またスケベな想像したやろ?」

「し、してないって!」

「ああもう!人前に引き出す時くらい、気を遣えっちゅーねん。師匠のアホ!!」

「いや、それよりお前、どこに行くつもりなんだ?」

「本山。ちゅーか正確に言うと目的地は《陣廊》やな」

「え?」

「こうなったらヴェリーユに敷かれてる精霊感知の中枢をぶっ潰したるんや」


 エルデの作戦は極めて単純で直線的だった。

 逃げる為に城壁に向かうより、中心部の方が圧倒的に距離が近いからこっちに来たという理屈なのだが、その中心部たる大聖堂の内部構造が頭に入っているから大丈夫だという。

「なんせウチは一度、実際にここに入り込んでるからな」

 エルデはそこで致命傷を負い、仕方なく体を放棄して憑依の呪法……いや、移魂の呪法を行い、エイルの体に精神を飛ばしたのだという。

 言ってみれば本山たる大聖堂深部はエルデだけではなく、エイルにとっても因縁の場所なのだ。エイルにしてみれば、全てはそこから始まったようなものなのだから。

「なあ」

 エイルは横にエルデの気配がある事を確認すると、走りながら声をかけた。

「なんや?」

「前から聞こうと思ってたんだけどさ」

「ん?」

「なんで移魂の呪法を使ったら、俺の頭にお前の意識が入ってくる事になるんだ?しかもこっちはお前のところからすると異世界なんだろ?」

「うーん……」

 それはエイルの後方から聞こえた。

 エルデがいきなり立ち止まったのだ。繋いだ手が離れて、エイルはエルデを追い越していた。

「おいおい、そんなところで考え込むなよ。止まるとまずいんだろ?」

「ウチにもわからへんねん」

 あきれて戻ってきたエイルに、エルデは済まなさそうにそう言った。声色の雰囲気で、それが嘘ではなさそうな事はエイルにも何となくわかった。

「術をかけたのはお前だろ?そもそも移魂の呪法って……」

「まあ、仮説は構築済みや。たぶん合ってると思うけど」

「じゃあ、それを聞かせろ」

「そう言うけど、アンタに言うてもわかるかどうか……」

「そんな事はオレが決める事だ。聞かせろよ、その仮説ってやつ」

「いや」

 エルデはしかし答えなかった。

「ややこしい話はまた今度や。そんな事より警戒は怠ったらアカンで」

 それだけ言うと、エルデはエイルの手を取って再び奥へと走り始めた。

 エイルは軽くため息をつくと、素直に従った。はぐれたらそれこそえらい事になる。それに、落ち着いてからゆっくり聞く方がエイルにとっても都合がいいのは確かであった。その疑問に対する答えはエイルが時のゆりかごからずっと持ち続けている違和感を解きほどく大きな鍵だという予感、いや確信があった。

 ――そうじゃない。違う。

 エイルは時のゆりかごで初めて違和感を覚えたのではなかった。ずっとくすぶらせてきた違和感という「種火」が、時のゆりかごでの体験を経て、小さな炎に変わったのだ。

 エイルは消えて見えなくなっている右手の痣の事を思い出していた。

 エルデが意識の中に入り込んでいる時には存在していなかった痣だ。もちろんフォウに居た時にもそんな痣はなかった。

 時のゆりかごでマーヤだと思い込まされていた少女の姿を見た時、初めて気づいた痣だった。

「ぼやぼやしなや。こっちや」

 脇にある通路に入り込んだエルデが、強い力でエイルを引っ張った。勢いで通り過ぎようとしていたエイルは危うく転びそうになりながらも、エルデに手を引かれるままに少し細くなった通路に入り込んだ。

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