第四十話 離散 2/5
エルデは二人を残してファーンが入った部屋に向かった。当たり前のように廊下にも点々と血痕が残っていた。その量もそれなりに多い。だがそれはファーンの体から落ちたものではなく、血を含んだ服から滴ったものであろう。言い換えるならばそれほどの出血があるという事だ。それだけでファーンが重体である事はわかる。
エルデを悩ませていた問題とはそこであった。治療にはどう考えてもルーンを使う必要があったからである。
命に別状が無く傷が浅ければ、近くで材料を手に入れ薬を調合して手当てする方法もとれる。エルデの豊富な薬の知識があれば、ヴェリーユで手に入る材料だけでも相当な治療が可能なはずだった。しかし、ファーンの外傷はそんな生やさしいものではない。どう考えても一刻を争うものだろう。若い賢者の命を救うつもりならば、ルーンを使う必要があるのだ。それはつまり新教会の感知網に引っかかることを意味し、そうなると今度はエルデの存在と場所が特定されてしまう。
彼女たちがいる立派なその宿は町の中心部に位置していた。大聖堂からの距離を考えると、無事に逃げる事は難しい。姿を消すルーンや足音を消すルーンを唱える事はできる。だが位置を特定されてしまうヴェリーユという巨大な結界の中では、追尾系ルーンをかけられればそれで終わりである。
(ここはファーンを見捨てるのが正解、だろう?)
エルデは自問した。
ラウは自発的にここに来たわけではない。メリドが案内したものなのだ。
エルデは突然の血の匂いにも理性を失うことがないように、意識を強く保つべく予め気持ちの準備をすると扉をゆっくりと開いた。
寝台に横たわったファーンの姿がまず目に入った。次いで意識のないファーンの側に座り込んで、エルデを見上げるラウの顔が見えた。エイルはすでに部屋を出ていたようで、気配はない。
「エルデ!お願いです。《群青》を、ファーンを助けて下さい」
エルデの姿を見つけたラウは、はじかれたように立ち上がった。
ファーンの顔にはすでに生気がなかった。失血のせいで体温が下がっているのだろう。震えがある。
だがそれは重篤ではあるが現時点ではまだ命がある事を証明しているとも言えた。
エルデは自然に体が動いていた。滑るようにファーンの隣に張り付くと脈を取り、額や首筋に手をあてて現状を精査し始めた。
その顔はすぐに曇った。
「こんな状態の人間を動かすとか、むちゃくちゃやな。いったい何があったんや?」
「矢傷です。私を庇うために何本も刺さって……」
そう言うラウの目に突然涙があふれて来た。それまで無表情だったラウの顔がいきなり崩れ、嗚咽が部屋に広がった。
「この子は私をかばったんです。私を逃がすために!」
「落ち着け、ラウ。お前も賢者を名乗る存在やろ」
「——はい」
「いったい誰にやられたんや?」
「新教会の……僧正に……」
エルデに叱責され一瞬で我に返ったのはさすがというところであろう。小さな悲鳴のような声は影を潜め、いつもの感情を押し殺した声でラウはそう告げた。その言葉はエルデの表情を強ばらせるのに充分だったが、黒髪のハイレーンはしかし、ファーンを看る手は止めなかった。
「面が割れてたっちゅう事か?」
エルデはメリドが言っていたモテアの少女の事を思い出した。
「そのようです。でも、元から正体が知れていた訳ではないと思います。《蒼穹の台》の指示により、この町であなたが現れるのをもう二十日も待っていたのですが、今日になって突然ですから」
ラウは妙な紙片をもらった時からこの部屋に至る一部始終をかいつまんで話した。
「ルーンは?」
「ファーンが、私に『柔らかい石化』を……」
ラウのその言葉に、さすがにエルデの手も一瞬だけ止まった。
それではもう、既にここは新教会の目と耳とも言うべき感知機関「陣廊」の感知網下にある事になる。
「すみません。あなたがすでにお帰りだとは知らず、巻き込んでしまいました」
「――しゃあないな。で、どうやってその場から逃げたんや?」
エルデの問いに、ラウは側に置いてある弦の切れたダラーラを手に取った。
「これのおかげです」
エルデはダラーラを怪しいものを見る目つきで眺め回した。
「それって……ひょっとしてひょっとすると、『庫』にある、例の怪しい呪具か?」
ラウはうなずいた。
「糸巻きを巻き込んで三本の弦を全て切ると、ごく近距離ですが空間転移ができるのです」
「へ?」
「ご存じの通り、例の呪具には特殊な効果が二つあります。この呪具の場合は空間転移と、もう一つは濃い霧を発生させる力です。今日はその両方を使って逃げました」
「ふーん。呪具か……」
エルデは目を細めて少しの間ダラーラを見ていたが、我に返ったように視線をラウに戻した。
「ここに来る間、敵に追尾されている様子は?」
「何とも言えませんが、あのジャミールの兵士長、メリドはかなり上手に敵を回避していたと思います。目視的には、ですが」
「そうか」
エルデは一通りファーンを調べ終わると、立ち上がって精杖ノルンを取り出した。
そしてラウの顔をじっと見て、低い声で尋ねた。
「助けたいか?」
ラウはその問いに、少し間を空けてからうなずいた。
エルデの言葉が持つ裏の意味を噛みしめていたのだ。
ルーンを使った人間だけが感知される仕組みである。つまりファーンをここにおいて今逃げれば、ラウ達は感知される事はない。犠牲は一人だけで済む。
だがエルデが言った意味はそれを前提にしているわけではないとラウは思っていた。
簡単に治療ができるのであれば、ハイレーンたるエルデならすでに何らかの手当を始めているはずだった。だが三年ぶりにラウの前にその素顔を見せた黒髪の少女は何もせず、精杖を取り出しただけなのだ。
それはルーンを使わないと治せない状態だということを暗に意味していた。そしてこの場所でルーンを使うという事がどういう事なのかを知っている者同士に通じる覚悟を尋ねられているのだという事も。言い換えるならば、エルデはファーンの為にルーンを使う事を前提に、ラウの覚悟の程を聞いているのだ。
それはここにいる他の人間をも巻き込んでまで助けたい人間なのか、という重い問いかけであった。
「本来、私の立場なら従者は切り捨てるべきでしょうね」
「そうやな。でも三席に名を連ねる程の賢者なら、そもそもこんな状態になった従者をここまで運ばへんやろな」
「私がハイレーンであれば、間違いなく既にルーンを使っていました」
ラウはエルデを射るような眼差しで見つめると、そう言った。
その言葉に自分の覚悟を込めたつもりだった。ルーンを使ってから新教会の手の者がここにやってくるまで、どれだけ時間がかかるかはわからない。いや、ファーンがここにいるだけで既にこの部屋は危険にさらされている。そこでさらにエルデにルーンを使わせると言う事は、エルデに向かって敵の標的になってくれと言っている事に他ならない。
さらに言えば、たとえ治療ができたとしてもファーンが生きている限り、その場所は感知され続ける。ともに逃げるとして、事を全て済ませた後エルデとラウがヴェリーユを出るまでに追尾力のある攻撃ルーンをどれだけかわせ続けられるかも不明だった。
いや。治癒中に攻撃を受ける可能性も高かった。
だがエルデが治癒のルーンを使った瞬間に、ラウは自らの持つ強化ルーンを使って、最大限の防御を施すつもりでいた。ヴェリーユでは結界でそのルーンが弱体化されていると言うが、いったいどれくらい弱体化されているのかはわからない。しかし、自分の知る最高位のルーンを惜しげ無く使うつもりでいた。
エルデはそんなラウから視線を逸らすと、取り出した精杖の頭頂部にはめ込まれているいくつかのスフィアを見つめながらつぶやいた。
「今のラウならわかるかもしれへんな」
「え?」
「今のお前はエイルと同じや。あの時の……」
「あの時?……あ!」
エルデのいう「あの時」がいったい何を指すのかに思い至ると、ラウは顔を伏せた。
「どうにもならへん事を今更責めてる訳やない。ただ、お前がラウに対して抱いている思いと、あの時のカレンに対するエイルの……いや、正直に言うとエイルとウチの、やな。その気持ちをちょっとでもわかってくれると嬉しい」
「私は……」
「まあ、押しつけるつもりも、恩に着せるつもりも毛頭ない。そこのところは誤解せんでほしい」
「……」
「——なあ、ラウ?」
「はい」
「お互い今更遅いんやろけど、ウチらは賢者の価値観だけを持ち続けとくのが一番楽なんやろな」
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