第三十八話 赤い眼の謎 2/3
「エルデでええ。ウチの本質はエイルの中でリリア姉さんと出会った時も元の体に戻った今も変わってへん。そやからたとえウチの正体がわかったからっちゅうてお互いの関係を変える必要はないやろ?」
「わかりました」
アプリリアージェは普段の顔に戻ると頷いた。
「あなたは……いえ、エルデはそれでいいのですか?」
「それでええ、とは?」
「さっきも言いましたが、エルデが何もしなければ、おそらくエイル君とネスティは」
「うん……」
「気のない返事ですね。エルデとしては進んで身を引く、と?」
「そやからそんな話やないって言うてるやろ?リリア姉さん達にとってはそもそも人間と化け物がどうこうなるなんてあり得へんっちゅう話とちゃうんか?」
強い調子でエルデはそう言ったが、それはアプリリアージェにはどうにも寂しそうな声にしか聞こえなかった。
そのエルデの態度を見ても、確かに何も変わっていないのかもしれないと思った。「知る」前と後での、少なくともエルデの態度は全く変わらなかった。
そう。変わらずに、エイルの話になると寂しそうで、辛そうで、そして恥ずかしそうな態度を見せていた。図らずもアプリリアージェが口にしてしまった「化け物」という言葉を自嘲気味に自ら使う姿は痛々しくさえあった。
そんなエルデの姿を見ると、アプリリアージェはその言葉を口にしてしまった事を一生の不覚だとさえ思えてきた。おそらく、それを言わせたのがエルデ本人だとしても。
「話してくれてありがとう、エルデ」
アプリリアージェはそう言うと、テーブルの上に両手を乗せて、続けた。
「ついでと言ってはなんですが、後学のために教えてくれませんか?『喰らう』とは、文字通り、その……むしゃむしゃと人間を食い殺すという事ですか?スカルモールドのように。それとも」
「ちゃんと屠殺して、熟成させてシチューとかステーキにするとか思てるんか?」
エルデはその質問を予想していたのだろう。アプリリアージェの言葉を途中で遮った。
「――血、や」
「血?」
「ウチらが食らうのは人の血。そやから正確には食らうというより飲むとか、すするとか表現すべきなんやろな。どちらにしろそれがウチらが人の天敵と言われとった所以や」
「血、ですか」
エルデはアプリリアージェから視線を逸らすと、頬杖を突いてエルデが出て行った厨房へ続く廊下側の扉をぼんやり眺めた。
「生物学的に言うと、ウチらには胃か腸かしらんけど、そこに人と違う特殊な消化酵素があるんやろな。とにかく人の血はウチらにとって極めて良質な栄養源らしい。もちろん普通に人と同じモンも食べられるから、人の血なんかすすらんでも基本的には問題はないんや。でも……」
「でも?」
「亜神が人の血を呑むのは本能みたいなもんや」
「え?」
アプリリアージェは再び血が逆流するようなおぞましい気持ちに支配された。しかしそれは今までと違い、エルデの纏う雰囲気に反応した恐怖から生じていたものとは違う。自らの想像と妄想が作り出した恐怖が生んだ感情だった。
「さっきのウチのみっともない姿を見たやろ?ああいう衝動が、あるんや」
エルデは絞り出すようにそう言うと、テーブルに顔を突っ伏した。
「そやからウチに……できるだけ血を見せへんようにして欲しい」
「やはり、血でしたか」
アプリリアージェはケガをした指を包んだ布を見つめるとそっとその上にもう片方の手を重ねて隠した。
「今まではエイルの借りもんの体やったから、感覚そのものがそうとうに鈍かったし、何より嗅覚が消えとったから理性が勝っとったんやけど」
エイルはそう言うと自分の長い黒髪を一束つまんで所在なげにくるくると振った。
アプリリアージェはエイルの後を補足するかのように続けた。
「元の体に戻った今では、刺激が強すぎるという事ですね。そういえばエイル君と一緒の時は嗅覚もダメだったみたいですから、それが戻ったという事は、相当な衝撃があったと言う事ですね?」
エルデは顔を伏せたままでうなずいた。
「やっかいなことにウチらの五感は、人よりかなり敏感なんや。そやから、これはウチのお願いや。そういう場面をできるだけ排除する手助けをして欲しいねん。ウチの正体をリリア姉さんに教えたのもこれを頼みたかったからなんや。でも、まさかあそこで姉さんがケガして血ぃ出すとは思わへんかった。――白状すると、けっこう危なかってん。堪忍や……」
エルデは顔を伏せたままで、そう言った。
他の誰に知られてもかまわない。でも、エイルにだけは知られたくない秘密。
それがエルデのイライラのそもそもの原因だった。あれはエイルを待つイライラではなく、どうやってこの話を切り出そうか逡巡しているイライラだったのだ。
エルデの目論見では、目覚める事ができた時、エイルは既にフォウへ帰っているはずだった。そうであれば本来の体を使ってアプリリアージェ達を現世に戻した後、おそらく自分は「時のゆりかご」に残り、現世の事など忘れて長い眠りにつくつもりだったのであろう。
だが、思惑はものの見事に外れた。
エイルはファランドールに留まる事を選んだ。
事情を知った後で改めてエルデの立場になってみると、エルデの気持ちが少しわかる。目覚めた時、まだエイルがそこにいるのを見てさぞや驚いた事だろう。
アプリリアージェはその時の記憶を探ってみた。確かあの時、エルデはエイルを見ると目を見開き、次いで何かを言おうとした。確かにそんな表情だったはずだ。あれはエイルを認知していた目であった。だからこそ、その後の記憶喪失の演技が嘘だと気づいていたのだ。
ファランドールにエイルが残った理由はわかっていた。それはエイルの可能性の引き出しの一つに予め記されていた事だからだ。
アプリリアージェ達に同行して、エルネスティーネの助けになろう。
そう考えて残る事を決めたのだ、と。
ファランドールにエイルが残るのであれば、「責任を取ろう」とエルデは考えた。意図してやった訳ではないとはいえ、ファランドールというエイルにとっての異世界に引きずり込んだのはエルデであり、その世界を征くと決めたエイルの助けをしなければならない。それがエルデの責任のとり方なのであろう。
でも、それは……。
アプリリアージェはいつの間にかテーブルに行儀悪く突っ伏している人にとって危険な存在を、改めてじっと見つめた。
今ここでその正体を明かさなければならない事になったのは不本意な事だったろう。人の天敵「亜神」と呼ばれる伝説の種の生き残りは「時のゆりかご」で文字通り「伝説」のまま人の目に触れることなく、時のはるか向こう側へ静かに旅立っていくはずだったのだ。
だが、自分の失策を償う為に「現世」へ下るという。
別に下る必要などないに違いない。エイルはファランドールに来てからもう二年あまり、エルデと共に暮らしていた訳である。おそらく普通に生きていく知識は持っているはずであった。それなのに、その異世界人の行く先を見届ける為にわざわざ「人の世界」へ現れる事は、問題が多すぎるように思えた。人にとっても。亜神であるエルデにとっても。
そしておそらくエイルにとっても。
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