第三十五話 十年戦争 5/5
シルフィード軍がそのような状態になってしまうと、相手の軍隊も相当な狂騒状態に陥っていたであろうと容易に想像がつく。ピクシィが所属する部隊では、その「的」を即除隊させるのは当然の行為になっていたし、上層部もそれを軍規違反としなかった。シルフィード以外の国にはピクシィの上級士官も存在していたと思われるのだが、彼らが一体どうなったのかはどの国の歴史にもいっさい記されていないのは不自然であるし、軍隊を強制除隊させられたピクシィは、味方の後ろ盾すら無くした状態で戦場に捨てられるわけであるから、生き延びる術はその時点でたたれた事になる。
もちろん除隊に際しピクシィからは様々な抵抗があったに違いない。
記録はもちろん残存せず、現時点でも公式には否定され続けているが、シルフィードのアルヴ部隊の狂気の闘い振りを畏れた他国軍の中には、自軍内部で秘密裏にピクシィの兵を「始末」していたという状況証拠はいくらでも存在する。そしてそれは「軍隊」だけの話ではないのである。多くの村人や町の住民を「狂気の暴力」から守る為という大義名分が彼らにはあったのだから。
従ってピクシィという種の虐殺行動についてシルフィードばかりをせめるわけには行かないという説を唱える者も少なくはないが、そうせざるを得ない状況を積極的に作り出していたのは他ならぬシルフィードなのである。
それはもはや報復攻撃でも何でもなく、まさに「大虐殺」としか形容のしようがない忌むべき黒い歴史となった。
当時のカラティア朝シルフィード王国の国王はフェイトンで、彼は結局シルフィード軍の暴走を抑える事はできなかった。彼がやった事は、暴走し戦略的には瓦解し始めた自軍を立て直す為に戦線に投入する援軍の徴兵命令を出す事だけであった事は当時の記録からもうかがい知れる。
記録によると国王フェイトンは「ユーラ」以降、なんとそれまでの十倍の兵を戦線に投入していたのである。国民皆兵制をとっているシルフィード王国ならでは、いやアルヴ族の国であるから可能だったとは言え、常軌を逸した物量作戦には違いなかった。
「ピクシィを倒す」という旗印の下、多くのシルフィード国民が我先にと争うように剣を手に集まったという。
それは一か八かの賭けだったのか、狂気が生んだ文字通りの狂騒だったのかはもはやわからない。だが、軍需産業を除くシルフィード王国のあらゆる産業が停滞し、麻痺し、内部から国が崩壊する寸前まで追い込まれた頃、ファランドール全人口の四分の一とも三分の一とも言われる犠牲者を出し、地上のありとあらゆる国と地域を巻き込んだ人類未曾有の惨劇はようやく幕を下ろした。
サラマンダ国王グレイン二世がついに降伏し、ウンディーネからの完全撤退とドライアド王国のウンディーネ駐留を認めたのだ。
シルフィード王国はサラマンダ大陸のみならず、ドライアド大陸にまで及んだピクシィの虐殺行為について同盟国を含む諸外国から強く非難され、サラマンダ大陸からの無条件完全撤退と講和条約不参加を求められた。
その要請をシルフィード国王フェイトンが受け入れたのが、星歴一○二一年白の三月三日。戦争が終結したとされる日である。
当時のシルフィードの首都であったヴェッダでそれが告げられたのは、戦争開始からすでに十年もの時が過ぎた蒸し暑い日の事であったと伝えられる。
シルフィードは戦争終結後も諸国からの非難を浴び続けたが、それだけでは終わらなかった。
戦後数年後に、ファランドールにピクシィが一人も居なくなっているいう驚くべき事実が明らかになったのである。
実際には「ユーラの惨劇」と呼ばれる事件から一年と少し後にはピクシィの目撃証言はなく、シルフィード以外では唯一軍籍簿が整っていたドライアド軍の名簿にもピクシィを表す文字がいっさい見あたらなくなっていたという。
すなわち戦争終結の一年以上前の時点で、すでにひとつの人種、いや人類がファランドールから消えて無くなっていたのである。
狂気の憑きものが落ちていたシルフィード王国が、その事実を知ってから執った政策はご存じの通りである。
『国外侵略戦争の永劫禁止』
『少なくとも向こう百年間、サラマンダ王国の復興に人事・経済面で惜しみない援助を行う』
『シルフィード王国領内での例外のないいっさいの宗教活動の禁止と国教の廃止』
『カラティア朝シルフィード王国は国王に未来永劫「フェイトン」という名を用いてはならない』
残念な事にその後もファランドールから戦争は無くなる事はなかったが、時の流れはウンディーネを緩やかな独立国家共同体から、共和国連邦政府という形式に変化させた。サラマンダはごたごたしながらも王政を維持していたが、「十年戦争」から数えて三千年後に勃発した世界大戦「千日戦争」でドライアド・シルフィード連合軍によってついに王政の終焉を迎えたのだ。
そして何より、『十年戦争』後の歴史に「ピクシィ」の文字が刻まれることはなかった。
重苦しい沈黙が部屋を支配していた。
突っ伏したままのエルデからは、今は精霊波の異常な揺らめきは感じない。逆にエーテルの流れが止まっているかのようで、肌寒ささえ感じていた。
アプリリアージェは無駄な事だとは思いながらも、気分を変える為に紅茶の残っているはずのポットに手を伸ばした。
その中には、すでに冷めてしまった渋い液体が入っているはずだった。
それを口に含んで、頭をすっきりとさせたかったのだ。
アプリリアージェは上品な白磁のポットを手に取ると、中の液体を自分のカップに注ごうとした。だがその時、不覚にも手を滑らせた。
無意識のうちに手に汗をかいていたのだろう。白磁のポットはアプリリアージェの手をツルリと離れるとそのまま床に落ち、乾いた衝突音をたてた。結果として大小の破片と化したポットは、毛足の長い絨毯の上に散らばる事になった。
その音に反応して、エルデは顔を上げた。
それを見たアプリリアージェは、何て寂しそうな顔をしているのだろうと思った。
いや。
長い黒髪を持つ少女に、表情はなかった。
エルデが纏ったエーテルをアプリリアージェが肌で感じたのだ。
寂寞とした、肌寒い感情を。
「ごめんなさい」
アプリリアージェはそう言うと慌てて床に膝をつき、ポットの破片を拾い集めた。この宿で使っている磁器製のポットは見た目が美しく繊細なのは良いのだが、上品な造りにしたかったのか肉厚がない。そのせいか多少厚みのある絨毯の緩衝力程度では破壊を免れなかった。
「あ」
アプリリアージェは小さな声を上げた。
破片の一つで指先を切ってしまったのだ。
細心の注意を払っていたはずだったが、またしてもつまらない失策をしでかしたアプリリアージェは、小さくため息をついて赤い血が流れる指先を見つめていた。
異変は次の瞬間に起こった。
その場の空気が沸騰したかのようだった。
アプリリアージェは今まで感じた事がないほどの精神的な圧迫を感じて顔を上げた。その気配もこの場の熱も、全てはエルデが発しているエーテルのせいだと確信して。
果たして視線の先にはエルデの顔があった。
いや……。
そこにいたのはもはやエルデではなかった。
少なくともアプリリアージェの知るエルデでは……いや……それはもはや人と呼べるものではなかったのだ。
かつてエルデであった「それ」を見てしまったアプリリアージェは瞬時に自らの全ての機能が凍り付くのを感じていた。
体が硬直しただけではない。同時に思考も殆ど停止した。
そしてただ感じていた。
全身に走る寒気と、全身に泡立つ鳥肌。
早鐘のように、文字通り警鐘を鳴らず鼓動。
それなのにどんどん引いていく血の気。
それは今まで感じた事のない恐怖だった。
本能が感じる強い恐怖が、意識を失わせる事があると言う事をアプリリアージェは混濁し出した意識の中で感じていた。
体温の下がった頬に、熱いものが伝った。
涙だ。
理屈で規定できない恐怖は生理機能さえ意識下にはおいてくれないようだった。
高まる恐怖に押しつぶされそうになりながらもそれにあらがい、その整った顔を引きつらせながら、アプリリアージェはようやく口を開く事に成功した。
だが、その口から発せられた言葉は、決して彼女の意志から出たものではなかった。本人の意識はどうあれ、もはや理性はその制御を失っていたのである。声帯は本能に支配され、心の中に響き渡る悲鳴をただわかりやすい言葉にして相手にぶつける事しかできなかったのだ。
おそらく本能は大声で叫びたかったのだろう。
だが、あまりの恐怖はそれさえ許さなかった。しわがれた震える声で、たった一言を絞り出すのが精一杯だった。
「化け物……」
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