第二十三話 ピクシィの少女 2/3

 精杖の主はそれを水平のまま前に突き出すと、目の前に浮く赤い光に向かって静かに語りかけた。

「《白き翼》の名において命ずる。我が糧となり我が求めにより我が道を照らせ、ザルカの王、シグ・ザルカバード」

 はっきりとした発音だった。その場の誰もがエルデの言葉を明瞭に聞き取ることができた。言葉は平文で、その意味もわかった。わからないのは何が起こるのか、だけであった。

 だがそれもほんの数秒の事であった。変化はすぐに現れたのだ。

 中空で光っていた赤い光がエルデの言葉に反応するかのように精杖の頭部にスッと入り込んだ。エルデの唱えた言葉は、赤い光を取り込む為のものだったのだ。

 その赤い光はエルデの精杖の中でしばらく光っていたが、やがてふっつりと消えた。

 エルデは光が消えるのを確認すると、ゆっくりと精杖ノルンを下ろした。


「エルデ!」

 シグ・ザルカバードの赤い光の消滅に伴い、エイルの呪縛が解かれた。エイルはすぐに寝台の上でぼんやりとしているエルデに駆け寄った。

「お前、本当にエルデなんだな?オレの中に居たエルデ・ヴァイスなんだな?」

 そう叫びながら近づいてきたエイルを認めた瞳髪黒色の美しい娘は、驚いた顔を見せるとあわててノルンを持った手を上げ再び前方に突き出し、ごく短いルーンを唱えた。

「パラス!」

 認証文がエルデの口をつくと同時にエイルの体は本人の制御を離れ、何かに塗り込められたように動かなくなった。

「エ、エルデ?」

 エイルは沈痛な声でエルデに訴えた。

 エルデはしかし、羽織った紗の前合わせをしっかり閉じながら胸を隠し、寝台の上をじりじりと後ずさった。顔は真っ赤で、その目は大きく見開かれていた。そしてその吊り上がった目はエイルを睨んでいた。


「誰?」

「え?」


 その短いたった二つのやりとりの後、その不思議な広い空間に、微妙な沈黙の時間が流れた。

 エルデはそこで初めてアプリリアージェ達の存在に気づいたような顔をして、周りにいる人間を観察するようにじっと見つめた。自分以外に三人の人間が存在しているのを確認すると、全員に向けて同じ問いを投げかけた。

「あなたたちは何者です?《真赭の頤》の客人ですか?」

 その言葉を聞いて一歩踏み出そうとしたファルケンハインの肩をアプリリアージェが手をかけて制した。


 エイルと言えば、もちろんエルデの口から出た二つの言葉に混乱していた。認証文と、そして「誰?」という言葉である。

 エルデの憑依が解けた。それはいい。

 驚いたのは、ずっと男だとばかり思っていたエルデが女だったこと……それにシグ・ザルカバードの謎の言葉……そして消滅。

 いや、そんなことよりもなによりも、なぜエルデが自分を覚えていないのかが直面する大きな謎だった。

「エルデなんだろ?現名はエルデ・ヴァイスだってさっきちゃんと言ったろ?本当の名前ってやつは教えて貰ってなかったけど、《白き翼》っていうマーリン正教会の賢者なんだろ?ずっとオレに取り憑いてたのは……オレの頭の中に勝手に入ってきたのは、エルデ、お前なんだろ?」


 幸い、声は出せた。

 だからピクシィの少女に、エイルはたまらずそう声をかけた。

 相手の気持ちを高ぶらせないように、エイルとしてはできるだけ感情を抑えてゆっくりとしゃべったつもりだった。

 しかし、エルデはかぶりを振った。

「何の事かわかりません。私は……あなたのことなど、知りません」

 その返答に、エイルよりも先にアプリリアージェがエルデに声をかけた。

「賢者エルデ・ヴァイス。いえ、ここは《白き翼》とお呼びした方がいいのでしょうか?」

 エルデはアプリリアージェの声にビクリと体を反応させると、ゆっくりと声の主に顔を向けた。

「《白き翼》という名前をもし耳にしたのだとしたら、それは今すぐに忘れて下さい。訳あって口にすることは出来ぬ名前なのです」

 エルデのその答えにアプリリアージェの眉が少し反応した。

「――わかりました。では賢者ヴァイス。我々二人の事も覚えていらっしゃいませんか?」

 エルデに呼びかけるアプリリアージェの声はいつもと変わらず優しく穏やかなものだった。二人の間に距離が少しあることもエルデには安心感に繫がったのであろうか、アプリリアージェに対してはさほど警戒した表情は見せなかった。

 だが、エルデが口にした返答それ自体はアプリリアージェにとって芳しいものではなかった。

「――いいえ。覚えていません」

 エルデはそう言って首を左右に振ると、弱々しくうつむいた。

「皆さんは一体何者なのですか?なぜこの『時のゆりかご』に?ここは鍵を持っている人間だけが入れる特殊な場所のはずです」

 アプリリアージェは片手を小さく挙げて、口を開こうとしたファルケンハインの言葉を封じた。この場は全て任せろという合図だ。

「賢者ヴァイス。お見受けしたところ、あなたは最近の記憶をすべてなくしていらっしゃるようですね」

 エルデはその言葉にさらにうつむいたが、何かを思いついたかのようにすぐに顔を上げた。しかしアプリリアージェはエルデが何かを口にするよりも先に話を続けた。

「これは最初に申し上げておきます。私たち……ここにいる者は皆あなたの敵ではありません。そこにいるエイル・エイミイも私、アプリリアージェ・ユグセルも、私の後ろにいるファルケンハイン・レインもすべてあなたの仲間です」

「仲間、ですか?」

「味方」と言わずに「仲間」と敢えて言葉を選んだアプリリアージェは、微笑んでいるような顔をさらにほころばせてとろけるような笑顔を見せた。

「先ほどからここで起こった事は私の理解を超えているのでよくわかりませんが、賢者ヴァイスは訳あって憑依の呪法……いえ、正しくは「移魂」の呪法とやららしいですが……とにかくその呪法でエイル・エイミイという少年に意識を同居させていたようです。その呪法が解かれたと、あなたの師である大賢者ザルカバードがおっしゃっていましたよ」

 その言葉を聞いたエルデの眉間に一瞬皺が寄ったのを、アプリリアージェは見逃さなかった。

「『移魂』……ですか」

 エルデはそう反芻するようにつぶやくとエイルの方をみやった。

「この人に……私が?」

 エイルはエルデをまっすぐに見ていた。エルデはエイルのその顔を見ると、苦しそうな表情になり、すぐに目をそらした。

 アプリリアージェはエルデの様子を子細に観察しながら、話を続けた。

「私たちはエルデ・ヴァイスの賢者の名を今ここで初めて知りました」

 アプリリアージェはエイルと出会ったいきさつからここに至る道程をかいつまんで説明し出した。自分たちが何者であるのかも包み隠さず。さらには別の場所にいるほかの仲間の事も。

 もちろんエルネスティーネやルネの事も含めて。


「私たちは、そうやって《真赭の頤》に会うために、ともに旅をしてきた仲間なのです。あなたのルーンに私たちはずいぶん助けられました。心から感謝しています」

 アプリリアージェが話をしている間、エルデは終始無言だった。うつむきがちに自分の手元を見つめてダーク・アルヴの話に耳を傾けていた。

「少しは思い出しましたか?」

 アプリリアージェの問いに、しかしエルデは首を横に振った。だが、アプリリアージェはそれを見てもかまわず続けた。

「《真赭の頤》に会うことができて、あなた……いえ、あなた達の目的は達せられたようです。でも実は私の目的は達せられることなく《真赭の頤》は消えてしまわれました。その点が非常に残念です」

「そうでしたか」

 エルデはアプリリアージェの話がひと区切りつくと、そうつぶやいた。

 そして、今度はもう少しはっきりした声で続けた。

「あなたたちの事はわかりました。では、私の事も少しお話ししておきましょう」

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