第十九話 エイルの選択 2/2

 エイルは視線を戻し、扉の前まで来ると立ち止まった。

 そしてその大きな取っ手に手をかける。

 アプリリアージェとファルケンハインが固唾を吞んで見守っている中で、しかしエイルの手はピタリと動作を止めた。

 彼は扉の取っ手を摑んだ自分の右手……正確には右手の甲を凝視していた。

(なんてことだ!)

 エイルは心の中で叫んだ。

 そしてその瞬間に、今まで押さえていたものがあふれかえるように、脳裏に様々な記憶が飛び込んで来ては消えて行った。

 ――突然頭の中に響いてきた別の人格……エルデ・ヴァイスと名乗る声

 ――まぶたに焼き付いていた「妹」マーヤの姿

 ――自分の住んでいる世界とは違う、まったく未知の世界の風景や人々

 ――訳のわからないスカルモールドという化け物との遭遇

 ――作り話の世界だけのものだと思っていた「魔法」……いやルーンの存在

 ――不思議な力を使うフェアリーと呼ばれる異能の人々

 ――人が人を殺すことが日常の世界

 ――生き伸びる為に、人を信じる事を止めた日々

 ――そして、失われてゆく五感


 そこまで考えたところで、ふとカレナドリィの笑顔が浮かんだ。

 エイルは心が締め付けられ、息が苦しくなった。そして彼はカレナドリィの笑顔にゆっくりと重なるもう一人の少女の顔を思い出した。

 同じ顔、違う名前。

 もちろんファランドールの人間ではない。フォウでの記憶がまた一つ鮮明に蘇ってきたのだ。

 タンポポ色の髪と秋晴れの高い空のような瞳の色。

 少し首をかしげながらにっこりと笑う白い顔。

 しゃべり出すと止まらなくなって、やがて輝くように笑い出す笑顔。

 その少女の顔がカレナドリィの記憶と重なり、屈託のない笑い声が倍音で聞こえて来たと思ったら、今度はエルネスティーネの笑顔が浮かび、カレナドリィとカレナドリィに酷似した少女の笑顔を上書きして胸に残った。

 その横にいるのは困ったように照れ笑いをするティアナと、心配そうにこちらを見上げるシェリルの大人びた瞳。ゆらゆら揺れるルネ・ルーの真っ赤な髪と耳触りのいい笑い声。怒り心頭と言った感じの、ラシフのつり上がった眉と真っ赤な顔……。


「どうした?」

 しばらく動こうとせず、まだ何かを迷っている様子のエイルに、シグは声をかけた。

 エイルはシグを振り返った。

「ほんとにもう時間はありませんか?エルデが目を覚ますまで待っていては駄目ですか?あいつとはどうしても話がしたいんです」

 《真赭の頤》は駄目だ、という風に首を振った。

「気持ちはわかる。だが見よ。すでに扉が形をとどめる事をやめて崩れかけている。だからそんな時間はないのだよ」

 右手の甲に釘付けになっていた視線を扉全体に向けた。すると確かに今しがたまではっきりしていた扉の輪郭が、なぜかぼんやりしたものに変わってきている。

 エイルは目を閉じて頭を小さく左右に振った。

「じゃあ、伝えておいてください。いろいろあったけどけっこう楽しかったって。いえ……すごく楽しかったって。ありがとうって……。それから……」

 そこまで言った後で、エイルはもう一度右の手の甲を見た。そして少し躊躇した後でこう付け加えた。

「それから、いろいろゴメンって」

 エイルはそう言って振り返ると、エルデの師の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 大賢者は小柄な黒髪の少年に大きくうなずいて見せた。

「必ず伝えよう」

 エイルは黙礼をすると、開いた扉の中に一歩足を入れた。

 ――だが、そこで再び立ち止まった。

 

 目の前にフォウの景色が広がっていた。エイルがよく知っている、そして懐かしい風景だ。

 そこは大きな施設の中庭だった。

 芝生で覆われた中庭の中央に広い通路がある。両側にそびえる白い建物と建物の間に通路はあり、その中央の通路に交差するやや細い通路が何本も両側の建物に続いていた。

 通路にはいくつものベンチが置かれており、若い男女が思い思いにベンチに腰掛けて過ごしていた。

 久しく見ていなかった鉄筋コンクリートの建物は、明るい光を反射し、エイルはまぶしさで目を細めた。

 そして中庭を見渡す。

 中央の通路を大勢の若い男女が行き交っている。昼時なのだろう。芝生で弁当を広げる小集団がいくつもある。中には男女二人だけで一つの弁当箱を分けている図もあった。

 やがてエイルは芝生の一角で見覚えのある少女の姿を見つけた。五人の少女が思い思いの弁当を広げている。その中の一人に目を留めた。

 波を打つ長いタンポポ色の髪。

 空の欠片をはめ込んだような大きな瞳……。

 彼女は友達の中で笑っていた。


 思わずエイルの口から小さな独り言が漏れた。

「生きていてくれたんだ」と。

 金髪碧眼のその少女は、生きて、そして楽しそうに笑っていた。

 よかった……。

 エイルはその光景を見て、胸に澱(よど)んでいた重くて暗い煤が一陣の風で吹き飛ばされたような気分になった。


「よかった」

 再び気持ちが口を突いた。そう口にしたとたん、こわばっていた体から力が抜けるのがわかった。

 エイルの言葉に、シグが眉をひそめて反応した。

「何をしている。急げ」

 シグがひときわ声を大きくしてエイルを急かした。

「在るべき世界の名を、そして正しいお前の名を告げよ。それで全てが終わる」

 その様子を見て、耐えかねたようにファルケンハインがつぶやいた。

「――エイルは本当に異世界の住人なんですね」

「ええ、本当に」

 答えるアプリリアージェの声にも抑揚がなかった。

 エイルが扉の向こうに消えるまでが、シグのいう一連の「儀式」なのだという気がした。だから彼女は立会人として静かにそれを見届けるべきだと思っていた。


「急ぐのだ!」

 扉の前までやってきて、ためらったままのエイルに一喝するような大賢者の声が轟いた。

 エイルは顔を上げて声の主である大賢者真赭の頤シグ・ザルカバードを振り返った。

(振り返るのはもう何度目だろう)

 自嘲気味にそう思いながらも、エイルは再び視線をアプリリアージェに移し、その横のファルケンハインと視線を絡め、そして最後に再び眠りについた「相棒」だった存在を見つめた。

 そして……思った。

(何だよ。オレはもうとっくに決めていたんじゃないか)

 エイルは心の中でそうつぶやくと、周りに聞こえるような大きなため息をついた。


 その後にとったエイルの行動にはその場にいた全員があっけにとられた。

 エイルは巨大な石造りの扉の取っ手に力を込め……全体重を込めて押し閉じたのだ。

「貴様、何をする!」

 ザルカバードが狼狽したような声で怒鳴った。

 その声に答えるように、エイルは扉を押し込めながら叫んだ。

「我が名は、エイル・エイミイ。ファランドールにある者だ!」

「バカな!」

「オレはもうファランドールの人間なんだ。オレがやることはここにある。フォウにはない」

「なんだと?」

 シグの語気が荒くなった。

 だが、エイルは動じなかった。シグをにらみ据え、嚙みしめるように言葉を紡いだ。

「フォウでは……妹が、待っているはずだった」

「――」

「だけど、本当はオレに妹なんていない」

「お前がこの世界にやってきて一体何を思って生きていたのかは知らぬ。しかし、扉の向こうがお前の有るべき世界なのだぞ」

「オレは……もうここで長く暮らしてきて、ここで生きてきて、このファランドールでやるべき事を見つけたんだ。今言ったようにフォウにはオレがやるべき事などない。だったら、今オレがフォウに帰る必要なんかない」

 エイルの言葉を受けて、少し間を空けた後、シグはゆっくりと口を開いた。

 語気の荒さは消えていた。

「二度と戻れないのだぞ?」

 エイルは首を振った。

「そんなことはわからない」

 シグは呆れたようにため息をつくと首を左右に振った。

「後悔するぞ」

 だが、エイルはそこできっぱりと言った。しっかりと響くその声に、もう迷いはなかった。

「そうかもしれません。でも……ここでフォウに帰ったらきっとその何倍も何十倍も後悔すると思ったんだ」

 その覚悟を証明するかのようにエイルは扉を二度と振り返らなかった。だが、たとえ振り返ったとしても、もう扉はほとんど消滅しかけていてゆらゆらとたよりなく揺れて、消え去るばかりになっていた。

「扉の向こうに何を見た?」

「たぶん、俺にとっては大事な風景です」

 シグの問いかけに、エイルはそれだけを答えた。

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