第十九話 エイルの選択 1/2
《真赭の頤(まそほのおとがい)》ことシグ・ザルカバードは「心配はない」と言った。
たった一言つぶやいて、そのまま再び意識を失った瞳髪黒色(どうはつこくしき)の少女の手を取り、その名を叫ぶエイル・エイミイに。
「今、こいつは……《白き翼》って言ったのか?」
シグ・ザルカバードはうなずいた。
「それが、この方の真の名だ」
「それがエルデの、賢者の名?」
エルデに何度聞いても教えてはもらえなかった賢者の名。
回避は不能だったとは言え、名乗らなかったが故に結果としてカレナドリィの命を奪う事にもなった、曰く付きの秘められた名前だった。
賢者としての権力を行使する際にその名を名乗ってさえいれば、ラウ・ラ=レイがエルデに対して偽物賢者の疑惑を持つことはなかったはずだった。
そこまでして執拗に隠し続けた、そのあまりに重いはずの名前が、今あっさりと本人の、いや「本体」の口から告げられたのだ。
エイルは体の力が抜けていくような気がした。
「なんだよ。簡単に言えるんじゃないか。だったらなぜ、コイツは自分の名をあれだけ秘密にしてたんだ?」
シグはじっと黒髪の少女を見つめたままだったが、エイルのその問いには少し間を置いて答えた。
「今となっては決して口にしてはならぬ名だからだ。その名を知ったが為にすでに四人、いや五人の賢者が命を落とした」
「なんだって?」
エイルはアルヴである大柄なシグを仰ぎ見た。
「本来であれば、その名を聞いたお前達を二度と現世(うつしよ)に返すわけにはいかんのだが、もはやその裁定もこの方に委ねよう」
「一体どういう意味だ?全く話が見えない」
「お前ごときが知る必要はない」
エイルはムッとしたが、シグの表情を見てこれ以上の質問は無意味だと悟った。
シグのそれはエイルが知っている賢者の物言いだった。普通の人間に対して相手の人格というものをおよそ尊重しようとする気持ちが感じられない、無機質な雰囲気が漂っていた。
(後で直接本人に聞いた方がいい)
エイルはそう判断した。
一連の急な展開が一段落ついたことで、エイルの頭の中に、ようやく現状を整理する余裕が生まれてきた。
そうなると頭をもたげるのは、比較的優先順位が低そうなものばかりだった。何故なのかはわからない。重要な事は後で本人に聞こうと思うと、後に残るのは理屈ではなく感情が生み出すものになっていく。
だが、それはエイルにとっては極めて重要な問題であるのは確かだった。
「今更だけど、この子、女の子なんだよな?」
「何を言っている?」
エイルの疑問に、シグは怪訝な顔をした。
「妹の記憶もそうだけど、そもそもこいつはどう見ても女だろ?」
「見ての通りだ」
シグの言うとおり紗(うすぎぬ)を一枚まとっただけの体はエイルには目のやり場に困る物体で……つまりはどこからどう見ても「それ」は女だったのだ。
エイルにとってそれが重大な問題だった。
ある意味どうでもいいような些細な事も全て含めてエイルの頭の中には様々な記憶が噴出し、今まさに混乱の極みにあった。
思い起こせば、確かに男というには妙なそぶりが時々あったような気はする。しかし、それは今になってみれば、という話である。今の今までエルデは男なのだと信じて疑わなかったのだから。
だが……。
エイルは思い出していた。エルデは一度たりとも自分の事を男だと言った事は無かった。もちろん女だと言った事も。
彼は頭を抱えて目を閉じると何かを振り落とすかのようにその首を左右に振った。だが、もちろんそれで混乱が振り落とされるわけではなかった。エルデが少女であった事実もそうだが、エルデの意識が体から出ていった後に感じた違和感が、どうにも気持ち悪かった。
「もう一度聞くけど、本当に『これ』が……エルデ・ヴァイス?」
そう言ってエイルは大賢者を振り仰いだ。
「ならばもう一度答えよう。この方はマーリン正教会の賢者、現名をエルデ・ヴァイスという」
「この方?」
違和感の一つがこのシグの言葉遣いだった。大賢者の言葉の不自然さに改めてエイルは違和感を覚えた。
だが、それよりも先に確認したいことがあった。
「エルデは本当に眠っているんだよな?」
シグはうなずいた。
「大丈夫なのか?」
エイルはエルデとシグを交互に見比べた。
「大丈夫かと問われれば、まずは何を持って大丈夫というのか、その定義の話からせねばなるまい。だが私はお前とそのような話をするだけの忍耐は持っておらん。少なくとも時間が経てばその瞳髪黒色の少女は再度目を覚ます。それは請け合おう。長く離れていた魂が肉体に戻ったのだ。両者がなじむまでには今しばらくかかろう」
大賢者はそれだけ言うと精杖で扉を指し示した。
「無駄な話はその辺でよかろう。ファランドール・フォウからの迷い子よ、急ぐがいい。異世界に通じるこの扉はそう長くは保たん。エルデ・ヴァイスの目覚めをのんびりと待つ時間などお前にはないのだ。彼女には私がついておる。お前は己が本来あるべき世界に戻るがよかろう」
エイルはその言葉に、再度扉とシグを見比べた。そして今度はアプリリアージェ達の方へ視線を向けた。
そこには心配そうな顔をした旅の仲間がじっとエイルを見つめて立っていた。
「リリアさん……ファル……」
エイルは視線をシグに戻した。
「少しだけ話がしたいんだけど」
だが、大賢者は首を横に大きく振った。
「何度も言わせるな。そのような時間はもうない。戻りたくば急げ」
エイルは唇を嚙んだ。
エイルにとってル=キリアは、はじめは敵と認識した相手だった。だがその後、運命のいたずらで苦難をともにする事になり、やがて掛け替えのない旅の仲間となっていった。
そう、大事な仲間だった。
別れるのは当然ながら辛かった。しかもその別れはあまりに突然の話で、気持ちの整理などしている余裕すらない。
フォウに戻る前にゆっくりと話したい事が、聞きたい事が、山のようにあるような気がした。
だが、その場でエイルが思いついたのは、つまらないありきたりの言葉だった。アプリリアージェが「誰にでも使えるルーン」と呼ぶ種類の言葉だ。
「ありがとう。今まで本当にお世話になりました」
エイルはアプリリアージェ達の方に顔を向けてそう言うと両腕を体の横にぴったりとつけたまま、腰を深く曲げて深くお辞儀をした。
精一杯の感謝と、言葉にならない気持ちを込めて。
そして彼らの顔を敢えて見る事をせず、エルデが眠る寝台を背に、二つの世界の境界である扉へ向かってゆっくりと歩き出した。
意を決して。
「エイル君」
その姿を見てアプリリアージェはためらいながら声をかけた。シグはそれに対して特に何も言わなかった。
エイルは呼ばれて立ち止まると、少し迷ったようだったが、ゆっくりとアプリリアージェ達を振り返った。
「リリアさん。それにファル。今まで、本当にありがとうございました。オレ……」
アプリリアージェは微笑んで小さくかぶりを振った。
呼び止めてみたものの、実のところアプリリアージェにも今エイルに掛けるべき言葉が思い浮かばなかった。
この「時のゆりかご」と呼ばれる場所にたどり着いてからの展開はアプリリアージェにとってもあまりに急にすぎた。
エイル・エイミイは彼があるべき場所であるファランドール・フォウへ帰る。
その認識すら不確かで、まるで誰かの夢の話を聞いているような気持ちだった。
後のことは……。
だが、アプリリアージェはその感傷にも似た気持ちを振り解こうとした。
そう、後のことはファランドールに残るアプリリアージェ達が考えるべき事だった。剣士エイル・エイミイは去るが、賢者エルデ・ヴァイスというハイレーンはファランドールに残る。
尋ねたいことがあるのはエイル・エイミイではなくエルデ・ヴァイスのはずだった。
で、あれば。
今は旅の仲間が、目的を果たして帰路につくのを素直に見送るべきだと思った。
だが、一方で深い憂鬱も顔をもたげる。
アプリリアージェはエイルを見ながら苦笑を浮かべた。
「ネスティには、なんて言いましょうか」
そして口に出た言葉がそれだった。
エイルはさらに強く唇を嚙んだ。
ファルケンハインも、思いはアプリリアージェと同じようなものだった。声を掛けたかったが、様々な混乱と思いが折り重なり、意味を持つ文章として口から出てこないもどかしさにイライラしていた。
なにより状況を全て把握できていない中での別れは、とてもではないがすっきりとしたものではなかったのだ。
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