第十三話 エウレイ・エウトレイカ 3/3

 手だけではなく、足も一切動かない。四つん這いになったままの格好で自由が一切きかなかった。思わずルネは悲鳴をあげた。恐怖が一気にこみ上げてきたのだ。

 だが、それすら不可能だった。

 それがイオスの持つ「神の空間」と呼ばれる特殊な能力の為せる技であることを、ルネはまだ気付いていなかった。

 もちろんハロウィンはそれを知っている。

 質問されれば本当のことを答えるしかない。その空間に居ることを知った時に二人の力関係は動かしがたいものになっていたのである。

「君の娘かい、エウレイ」

「実の子ではありませんが、私の大事な娘です」

 イオスの問いかけに、ハロウィン、いやエウレイ・エウトレイカは素直に答えた。

「心配はいらない。僕が彼女に危害を加えないことくらい、エウレイ、君なら先刻承知のはずだろう?騒がれると面倒なので動きを止めさせてもらっただけだよ」

 そう言うイオスだが、それでもエウレイの顔には絶望の色が浮かんだままだった。


 ルネはエウレイのその表情を見て確信した。ハロウィン、いやエウレイは賢者である。納得するとか納得しないとかそんな感情は後回しにするしかない。イオスと呼ばれたアルヴィンはその《銀の篝》という名を持つ賢者でさえ絶望するしかない程の力を持つ相手なのだ、と。

 決心がついたとたん、ルネは混乱を脱した。

 やることは一つだからだ。

(ハロウィンを助ける)

 その力が自分にはある事をルネは知っていた。

 フェアリー、いやエレメンタルの力は体が動かなくても意思で操れるのだ。

 できるだけ使わないようにしていた「能力」だが、自分でも恐ろしいと感じるその圧倒的な力を、大切な人のために使わずに、いつ使うというのだ?

(でも、できるだけ殺さないようにしよう)

 ルネにとっては大事な人を傷つけようとする憎い相手だったが、エウレイにしてみれば知り合いでもある。エウレイの優しさをルネは知っていた。相手の命を奪ったりしたらそのエウレイは深く悲しむに違いない。死んだ知り合いに対しても、そして殺してしまったルネに対しても。

 だが下手に手加減ができない相手でもあった。

 ルーナーの様だが、精杖も取り出さずに強いルーンをいとも簡単に使っていた。それに、ルーンを詠唱せずに使えるのだ。

(詠唱せずにルーンを使える?)

 ルネはそこにある符号を見つけた。

 同じく詠唱時間なしにルーンを使える人物を知っていたからだ。

(エルデと同じなの?)

 だとすれば本当に手強いに違いない。

 そして同時にある事も思い出した。《蒼穹の台》の持つ能力のことである。エルデ・ヴァイスは多くを語らなかったが、《蒼穹の台》に出会ったこと、そしてある一定の範囲に於いて《蒼穹の台》が無敵であることを聞かされていた。

 今がその状態なのだ。

 相手が動く前に動かなければ、勝ち目はないかもしれない。

 ルネは唇を嚙むと覚悟を決めた。

(何を迷うの?私の手は、もう血だらけじゃないの)

 勝負は一瞬だと判断した。そしてそれはイオスが意識をエウレイに集中した瞬間だと。どちらにしてもイオスがエウレイに何かを仕掛ける前に終わらせなければならなかった。


「さて」

 イオスが口を開いた瞬間に、ルネは動いた。それはエウレイにかけられた言葉であった。つまりイオスの注意は今、ルネにないはずであった。

 ルネは意識を集中すると、イオスの首を狙った。

 空気中の水分を集め、紙よりも薄い帯を成す。そしてそれを目にもとまらぬ速度でイオスの首に移動させるだけだ。水で出来た鋭利な刃は、イオスの細い首を綺麗に切断するだろう。

 順番に書けばそういう事だが、それを一瞬で行える力、それが強力な水のフェアリー、いや水のエレメンタルであるルネの持つ能力の一つなのであった。

 他にも簡単に相手を倒せる方法はあった。だが、範囲攻撃はエウレイにも被害が及ぶだろう。一点集中で確実に仕留める方法をルネはとったのだ。


「ぐう」

 ルネのうめき声にイオスは反応した。

「ルネっ!」

 言葉にならないうめき声を上げるルネに、エウレイは駆け寄ろうとした。だが、イオスがそれを制した。

「動くな、エウレイ」


 ルネの力はまったく発動しなかったのだ。

 それがその場のエーテルを無効化する《蒼穹の台》の「神の空間」の理(ことわり)なのだと言ってしまえばそれまでだった。だが、ルネはルーンの無効化であり、エーテルそのものがまったく使えないとは思っていなかったのだ。

 《蒼穹の台》が作り出す特殊なエアの範囲では、エーテルを利用する力は発動しない。さらに、そこではイオスの言葉に完璧に服従させられるのである。


(なぜ?)

 発動しない力に混乱したルネだが、原因を推理する時間などはなかった。すぐにそれどころではなくなったのだ。

 いきなり体が蒸発するのではないかと思う程、熱くなった。

 同時に金槌で頭を叩かれているのではないかと疑いたくなる程の頭痛が始まると、それに呼応するかのように耳鳴りが三半規管を大きく揺さぶり、空間把握を困難なものとした。警鐘のような動悸は今まで経験したこともないほどの速度で体中に血液を送り出し、それが急激な体温上昇につながっているようだった。

 ルネの視界に広がる自分の手の甲には血管が太く浮かび上がり、それがまるで生き物のようにうごめいているのが見えた。

 だが、もうそれがどういう事なのかを考えられる程の意識はルネにはとうに失せていた。

 言いようのない痛みが体中を駆け巡り、悲鳴を上げる事しか思い浮かばなくなっていたからだ。

 その苦しみの前には我慢などという都合のいい言葉は薄紙ほどの意味も持たなかった。


「質問に答えてもらおうか、エウレイ」

 涙と鼻水とよだれにまみれながら苦しみもだえるルネを、ただ絶望的な目で見つめているエウレイに、イオスは例の、まるでそこには何事も起こっていないかのような落ち着いた声で尋ねた。

「できればこの力を頼りに聞き出したくはないんだ。訳がわかればあれを楽にしてやれるかもしれん」

「ごらんの、通りです」

 

 その頃になると、ルネに対するイオスの命令の一部は強制的に解除されており、ルネは四つん這いの格好から一転、地面をのたうち回るようになっていた。そして体には劇的な変化が起こっていた。

「何だ?これは……」

 その様子を見ると、さしものイオスも驚きの表情を隠さなかった。

「このままでは服や靴が食い込んで、肉や骨が断裂します。脱がせてやって下さい。お願いだ!」

 珍しく驚いた表情を浮かべるイオス視線の先にいたのは、既にルネとは異質のものだった。

 地面を転がり回るルネの体が、大きくなっていたのだ。

 もう、さっきまでの小柄な少女はそこにはいなかった。地面でもがいているのはどう見ても成人したデュナンであった。

 イオスは精杖を取り出すと、何事かを口の中で唱えた。そしてその青白い精杖の頭をルネの体に向けると、ルネはあっという間に青白い炎に包まれた。

 成長したルネの体には、子供用の服がちぎれんばかりに張り付いていた。炎は服と靴、つまりルネが身につけていたもの全てを一瞬で灰にすると、すぐに消えた。

「フルエ・ウル・サラエ・ラ」

 続けてイオスがそう唱えると、今度は青い光がルネの体を覆った。その光が消えるのを待って、自分が着ていた商人風のマントを脱ぎ、それを一糸まとわぬルネの体にそっとかけてやった。

 その頃にはルネはもがくのをやめていた。大きな息をしてはいたが、うなり声はもう聞こえなかった。

 そのルネのそばに、イオスは光るものを見つけた。

「まさか……」

 手を伸ばしてそれを手にしたイオスは、ゆっくりと立ち上がると後を振り返った。

 そこには《銀の篝》こと、エウレイ・エウトレイカが首をうなだれて立っていた。

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