第九話 双黒の左 3/3
「いったいシルフィード、いや首都エッダで何かがあったんだろうね。それが何かはボクにもわからないけど、やっこさん、いや、もう名前を言ってもいいよね。サミュエル・ミドオーバ近衛軍大元帥が時期尚早ながらも動かざるを得ない事態が発生したに違いないと見るべきだろう。準備不足で、彼としても不本意な時期に事が起こったのは、慌ててこんなところで目の上のたんこぶであるキャンタビレイ大元帥を強引に抹殺しようとしている事が証明している。さらに言えば、彼はまだノッダに間者を送り込む前だったようだからね」
ミリアの言葉はリーンにはわからない部分も多々あったが、ノッダ内部にまだサミュエル・ミドオーバ大元帥の息がかかった者が入り込んでいないのは確かだった。
それはもちろんリーン自身がかねてより注意を怠らず、特に人の異動についてはガルフの権限を行使してあからさまにならないように細心の注意を持って制御していたのである。
結界修復を行うバード庁の先遣調査隊のノッダ受け入れを伸ばし伸ばしにしていたのもその一環で、王宮の修復作業においてもバード庁と近衛軍関連の施設についてはできるだけ先延ばしもしくは問題を多く洗い出した上で修復作業にはまだ時間がかかるという詳細な理由書を提出し続けるなど、リーンも様々な手を尽くしていた。
「もうしばらくは(ノッダ入りの)必要はない」
と言うノッダ責任者であるガルフの署名のある報告書は、ガルフの支配下にある内政官とアプサラス三世を経由した後決定事項として近衛軍大元帥に報告事項として手渡されており、現状ではまだ近衛軍関係者の直接的な介入の前段階であったのだ。
予定では年が明け、北部の雪解けを待ってから近衛軍の駐留部隊がノッダ入りする手はずになっていたから、本来であれば少なくともシルフィードの内部に事が起こるのはそれ以降のはずだったのだろう。
「まあ、だからこそ君達は」
「大戦に臨み、生き残る機会を得たという事はわかった」
ミリアの話をリーンは遮った。
彼にももう充分理解できていた。
もちろんサミュエルに想定外の何があったのかはわからない。しかし、だからこそ彼の計画は前倒しになり、その歪みとして重大なコマを取りこぼすことになったのだ。つまり、スズメバチは何者か、いや何事かによって滅亡を回避できる機会を得たのである。だが、その機会をもすんでのところで失う所を、他国の、おそらくこれから仇敵となる国の重鎮によって助けられたという事実……。
それがアルヴであるリーンの誇りを傷つけていた。
「では話が早い。今から君の『役どころ』について話をしよう」
「役どころ、か」
「大元帥閣下と君は九死に一生を得た。それは言い換えれば相手の優位に立てる機会を得た事でもある。なぜなら、相手は『君達が知っている事をまだ知らない』んだからね」
ミリアはそう言うと、意味ありげな笑いを浮かべて、こう続けた。
「そしておそらく、イエナ三世が『知っている事』も知らないのさ」
ミリアのその言葉に、ガルフとリーンは同時に反応した。
「陛下が『知っている』?」
リーンの問いに、ミリアは素直に頷いた。
「少し前、まだエルネスティーネを名乗っておいでだった頃に二人きりでお会いした。あれはそうだな、誰かさんによく似た少女がサラマンダのウーモスあたりにたどり着いた頃、だったかな……」
ミリアはそう言うと、意味ありげな笑いをガルフに投げかけた。
ガルフは一瞬目を見開いたかと思うとすぐに閉じ、観念したようにため息をついた。
「あなたは本当にいろいろとご存じのようだ」
「恐れ入ります」
「伺いましょう、ペトルウシュカ公爵。我々の演じる『役』というヤツを」
「やはり、ボクが睨んだ通り閣下はご存じ、という事でよいのですね?」
ミリアの問いかけにガルフはうなずいた。
「本当に一部の人間しか知らぬ事なのだがな」
「ご心配なく。おそらく誰も口外などしてはいないでしょう。かく言うボクも全く気づきもしませんでしたよ。本人に会ってもしばらくの間は、ね」
「本人というと?」
「どっちの? とおっしゃりたいのですか?」
ミリアは悪戯っぽい笑いを浮かべると、きょとんとしているリーンを見ながら答えた。
「王宮におられるイエナ三世殿下から、です。当時はまだ王女エルネスティーネ様でしたが。風のエレメンタル様の方は旅先でチラと拝見しただけで、まだお会いはしておりません。必要な時期が来れば、いずれお話をすることもありましょう」
「いったい何の話です、閣下?」
リーンはたまりかねてガルフにそう声をかけたが、ガルフは片手を上げてそれを制した。
「陛下とお会いになっていたとは……。いや、もう驚くことはやめましょう。公爵が特殊で特別な方だという事はもう受け入れる事にしました。ちなみにこのリーンはその事については全く知らされておりません。ですが、こうなってしまってはもう知っておくべき事なのでしょうな?」
ミリアはそれには直接答えず、フリストに目を向けた。
「今度の戦争はイエナ三世の存在、いや健在している事が最後の鍵になる。ボクはそう思っているんだ。でも、イエナ三世の事を知る人間はできるだけ少ない方がいい。ボクが言いたいのはそれだけだよ」
「我が主の命に従い、その件については我らは貝になりましょう」
「待ってくれ。いったい何の話だ? 陛下がどうされたのだ……」
リーンはそこまで言うと、口をつぐんだ。
「まさか?」
ミリアはいつものように右手の中指で眼鏡をずり上げるようにすると、静かに語りだした。
「はじめに言っておこう。イエナ三世がカラティア家の人間ではない『変わり身』だなんていうのは実に些細な事さ。それよりもボクは今から君に、歴史の講義をしようと思う。このファランドールの『仕組み』を教えてあげるよ」
リーン・アンセルメは生まれてこの方、知らなければ良かったと思った事柄など、一つもなかった。十年戦争におけるシルフィード王国軍が行ったピクシィ虐殺の事実についても、心が潰れるほどの衝撃を受けたが、知らぬよりも知って良かったと思っていた。
だがその夜、九死に一生を得た後、狭い速駆け馬車の中で聞かされた異国の公爵ミリア・ペトルウシュカが行った「歴史講義」だけは例外だった。
リーン・アンセルメがいまわの際に口にしたと言われている言葉は歴史的名言集に必ず収録されているのであまりに有名ではある。
ご存じの向きも多いとは思うが、敢えてここで引用しておこう。
「人間には知らなくてもいい事が二つある。一つは自分の死期。もう一つは我々の出自だ」
「我々の出自」という言葉が、その夜ミリアから語られた歴史の講義の事を指すのかどうかは、もちろん永遠に謎のままである。
往々にして哲学的な言葉として解釈されているリーン・アンセルメのこの言葉であるが、もともとリーンは実質的な人間であり、哲学的な著述などはない。あくまでも一軍人としてその生涯を閉じた人間である。従ってその言葉に哲学的な意味はなく、文字通り彼の率直な「思い」だと素直に考えるべきではないだろうか。
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