第七話 三つ数えろ 2/3
エスカは決して人前で礼装を着崩したりはしない。少なくとも詰め襟の留め金具を外す事はあり得なかった。おそらくロンドのみが知る寝間着姿のエスカはこれ以上ないほどだらけているが、いったん外向きの服を羽織ったならば、エスカはいくら酒を飲もうが決して崩れない事を矜持としていたのである。
つまり詰め襟の金具を外すという行為は、エスカの事を詳しく調べたであろうニームにも知りようのない、エスカとロンドとの間でだけ通じる「合図」だったのだ。
ロンドはエスカのその合図に反応していたのだった。
「このチビもこう言ってんだからいいんだよ。それより、このチビっ子は生意気にも紅茶の味がわかるようだぜ。お前の茶を気に入ったそうだ」
「ええ。『たいそう』気に入った。素晴らしい香りと味だな」
「これはこれは。よろしければお代わりをお持ちいたしましょうか?朝食のすぐ後ではございますが、丁度午後のお茶用の菓子が焼き上がったところでございます。味見などいかがですか」
ロンドの言葉に、人形の様な無表情なニームの顔があっと言う間にほころんだ。そうなるともうエスカにもロンドにも、ニームはただの子供にしか見えなかった。
「実にステキで魅力的な申し出だな。この屋敷の食事はどれもこれも私の口に合う。是非味見をしてみたい」
「それは光栄でございます。今の言葉、料理人に聞かせて励みとさせましょう。申し訳ありませんが、お部屋の用意にはもうしばらく時間がかかりますので、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
ロンドはそう言うとカップ類を一式下げて部屋から出て行った。新しいお茶はまた違う器でやってくると言うことである。
「初めて見たのだろう?」
二人きりになると、ニームがいたずらっぽく笑ってそう言った。焼き菓子に反応した先ほどの笑いとは違い、いかにも作ったような笑顔だった。
「当たり前だ」
エスカがさっきまでニームに対して持っていた親近感のようなものはあっと言う間に消え失せていた。
第三の眼が消えると同時に、得体の知れない本能的な恐怖は去ったが、エスカの額には脂汗が浮かんだままだった。
今度は今目の前で学習した事例から導き出された知識が生み出す別種の恐怖が彼を浸食し始めていたのだ。
「ポットを元通りにしたのは、お前だよな?」
「この場で私以外にあんな事ができる者がいるとでも?」
「この場でなくてもあんな事をできる奴なんざ俺は知らねえよ。それより、あれもルーンか?」
「『不滅』という強化ルーンだ。私が生きているうちは、二度とあのポットが割れる事はないだろう。まあ、もっとも無機質に対してしか使えぬルーンだがな」
「そんなものが人間に使えてたまるか」
「それについてはまったく同感だ。どちらにしろ『不滅』を使えるルーナーなどまず居るまい。少なくともドライアドのバードの中にはおらぬ」
「いねえだろうな」
エスカは素直にうなずいて見せた。
「では私が本物の賢者であること、そしてただの賢者ではないということは理解したか?」
エスカは隠しからハンカチを取り出すと額の汗をぬぐった。
「そう言われてもな。俺は『ただの賢者』すら知らねえんだぜ? 本当にお前は大賢者なのか? 唯一国際舞台に露出しているあの《真赭の頤》と同じ地位にいるっていうのか?」
ニームはしかし、首を横に振った。
「同じ大賢者だが、同じ地位などではない。言ったであろう? 私は『人の筆頭』 タ=タンは選定十二色の正統なのだぞ。ザルカの傍系を名乗るハゲおやじと同列で語るとは失礼千万」
「その、さっきから言っている十二色ってのはなんだ?」
「マーリンの選定十二色。単に十二色とも言うが、太古の昔に唯一神マーリンが定めた、世界を統べる事を許された四と八の氏族の事だ。十二の氏族の中でも正統が残っている家はもうほとんどいない。タ=タンと、そうだな。あと二つくらいだろう。だが正統がいくつ残っていようが《天色》の継承者であるタ=タンを継ぐ者は人の筆頭なのだ。わかるか?順位が一番上なのだ。さらに言えば正統たる血の濃さにおいても、いかなる人であろうともはや誰も私には敵わぬ」
エスカにはもちろんニームの言う意味は理解できなかった。神話に属する話だとしても、それは一般的なものではない。その話を知る者がいったい何人いるというのだろう。
「十二色ねえ。そんな言葉は聞いたことがねえぞ。ガキの頃さんざ聞かされた神話にも出てこねえし、そういう伝承好きで知識だきゃ豊富なバカ兄貴からも聞かされた事がねえ。つまり俺が知っている限り、そんな単語はファランドールには存在しねえんだが……」
「心配はいらぬ。賢者でさえ十二色の事を知っている人間はそう多くは居ないだろう。ましてや十二色を全て言える人間など数えるほどしかおらぬだろうな」
「さっきザルカの傍系とか言ってたが、あの《真赭の頤》もその十二色の一族なのか?」
「三聖と大賢者は十二色のうち、決まった氏族が引き継ぐ役職のようなもの。残りの四氏族はそれぞれ大賢者の補佐役となる。つまり三聖と大賢者はすべて十二色の末裔で固められているというわけだ。《真赭の頤》は十二色のうち『朱色(あけいろ)のザルカ』一族の血を引くものだが、さっきも言ったとおり彼は傍系だ。ザルカの正統はとうに断絶している。彼はザルカバード一族。名前からしても傍流の傍流なのだろうな。おそらく『バードを多く排出したザルカ一族』とでも言う意味の後付けの名前であろうから、正統からはいかにも遠そうではないか?」
「ふむ、なるほどな。少しだけわかってきた。お前達のその『賢者の徴』 いや『本名』とやらはその一族が継ぐものって事だな?」
ニームはニヤリと笑いながらうなずいた。
「血族が『眼』と名前を受け継ぐのは百五ある『本名』のうち、十二色のみ。だから十二色は特別なのだ。残る『賢者の徴』は、その能力に見合った者がいれば血筋など関係なく誰にでも『眼』と『本名』を受け継げる」
「つまり三聖と大賢者は太古から連綿とつづく一族が世襲しているってことなんだな。そこまでは理解した」
「ようやく話がしやすくなった」
「文字通り『目は口ほどにものを言う』って奴だ。あれを見りゃ信じないわけにはいかねえよ。それより『人の筆頭』ってのはどういう意味だ? タ=タン一族ってのは三聖より上の立場ってことなのか?」
だが、ニームはそれには首を横に振った。
「『人の筆頭』とはマーリンが定めた全ての人間の王たる称号。だがエスカも知っている通り、歴史上それが行使された事実はない」
「だな。ファランドールに統一王がいたなんて与太話は聞いた事がねえ」
「でも、マーリンはそう私たちに命じたのだ。もっともタ=タンは実際に人間を支配しようとは思わなかった。いや、十二色はそもそも人を支配などするつもりはない。だからこそこうやって今ファランドールは十二色以外の一族が様々な歴史を紡いでいる」
そこまで言うと、ニームは手に持っていた精杖に向かって何かを小さくつぶやいた。するとそれは彼女の手の中で一瞬で形を変えた。
ニームは驚いた顔をしているエスカに微笑むと、腕輪に変わった精杖を右の手首に填めながら続けた。
「大賢者はあくまでも三聖より下の存在。血の濃さがどうあれ、もともと違う立場に在る者だ。だから血筋が良かろうが悪かろうが三聖だけは関係ない。我々は三聖の僕(しもべ)なのだからな。つまり大賢者である《天色の槢(あまいろのくさび)》には僕としての重要な役割があるという事になる」
「役割?」
「『タ=タン』とはそもそも太古の昔に三聖の
「その《深紅の綺羅》っていうのはアリスっていう一族なのか?」
ニームはゆっくりとうなずいた。
「十二色のうち《アリス》の一族は《深紅の綺羅》を継ぐ一族だ」
「
「『クレハ・アリスパレス』 それが賢者ですら知らない彼女の現名。もちろん、これも他言無用だ」
「ふむ」
「ここまではいいな?理解したか?」
「いやまて。ごまかされねえぞ」
エスカは掌をニームに突き出した。
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