第五話 封名「イエナ」
イエナ二世以降シルフィード王国の女王となった者は多いが、彼女たちは誰一人としてイエナの名を継ぐことはなかった。
数々の組織の改編と当時施行されていた全ての法を近代化するべく尽力し、かつそれを成し遂げたイエナ二世。後世『賢王』の名で尊敬の対象になったイエナの名はしかし、子孫に名を継がれる事のない悲運の名でもあったのだ。
戴冠の直後、そしてまだ戴冠式の最中にもかかわらず目の前の側臣に求婚するという、乱心ともとれる前代未聞の行為も敬遠される理由の一つではあろう。しかし本当の理由は別にある。それはイエナ二世伝説に必ずついて回る醜聞、王女の出産疑惑である。
醜聞の内容は単純なものである。簡単に言ってしまえばイエナ二世の後を継いだ女王、クラリッセ五世は、イエナ二世が産んだ子供ではないと言う噂である。
イエナ二世は戴冠の一年後に遠縁にあたるブラウアー侯爵の三男、ゴットリープ・ブラウアーと結婚し、生涯の間に二子をもうけた事になっている。しかしその二人は仲が良くない国王夫婦の筆頭とされる程であった。ゴットリープは女癖の悪さで有名で、イエナ二世は長く夫の浮気の処理に頭を悩ませていたという。
当のゴットリープはと言うと、ブラウアー侯爵家の人間に「俺はあの冷血女と閨を共にした事は一度もない」と愚痴をこぼした事があるらしく、ここから女王とその子供との間に血縁疑惑が生じたのであろう。
ではクラリッセ五世はゴットリープが王宮の使用人の女や貴族の娘に生ませたとされる四人の子供のうちの一人であるかというとさに非ず。ゴットリープの子供達については皆それぞれ詳細な記述が残っており、どれも信憑性に足る。このあたりはイエナ二世の厳命があったと見るべきであろう。それほど完璧で客観性の高い調査書が残っているのである。
もちろんイエナ二世が二人の子供を処女懐胎で出産したわけではないだろう。ではクラリッセ五世の出自はどうなっているのかというと、それはマーリン正教会からの貰い子であるというのが現代にも伝わる噂の真相という事になっている。
当時のシルフィード王国はマーリン正教会との繫がりが極めて強かった為にそういうまことしやかな噂が囁かれたのであろう。現に正教会の協力下で近衛軍下にバード庁という組織を確立したのはイエナ二世その人である。おそらくその事があった為に後付けされた噂ではなかろうか。
また、自身は大した力のない水のフェアリーであったイエナ二世の娘クラリッセ五世が、なぜか強力な風のフェアリー能力を持っていたことも、非血縁説の信憑性を上げる為に一役買っていたのであろう。
どちらにしろ婚儀に対して物議をかもした上、円満な夫婦関係を築く事も出来ず、娘の出生疑惑を数千年経った後にも引きずらせるほどの、言わば醜聞がついてまわる女王の名を、いくら功績があったと言えど名乗る者はあらわれなかったのである。
もちろんイエナ三世を名乗りたいと事前に家臣団に相談しようものなら、全員一致で即座に却下される事は間違いない。
したがってエルネスティーネがイエナ三世を名乗ったのは、おそらく打ち合わせを無視した独断である事が簡単に予想できるのだ。
それは家臣団全員、あるいはその一部とエルネスティーネとの間に何かしら大きな溝がある事を示唆しており、前王の急死という異常事態と相まって「王室には何かがある」と考えざるを得ない。
そして「イエナ」は、当然ながらキャンタビレイの家と深く関係する名前なのである。
リーンの言葉に対し、その顔に大した驚きを表さなかったガルフは、その可能性を自身の中でも推測の一つとして持っていたという事であろう。
リーンが恐れている陰謀とガルフが想定の範囲として持っている可能性が果たして同一のものなのか……それを摺り合わせる機会がようやく訪れたわけだが、しかし、それが少々遅すぎたのを、二人はすぐに知る事になった。
話の続きを口にしようとしたリーンは、大きな衝撃を受けた。何が起こったのかわからぬうちに彼は馬車の床板にその高い鼻をしこたまぶつけていた。
体が馬車の前方に貼り付けられているような状態は、要するに馬車が急減速したことを示していた。
馬車自体は特にブレもなく走ってはいた。つまり破損したり何かにぶつかったわけではなく、何らかの理由で御者が馬車を急減速させたに違いない。
「大丈夫ですか、閣下?」
リーンは何とか起き上がり、同じく床に投げ出されたガルフが無事なのを確認してからいすに助け起こした。
次いで乱暴に御者側の壁に作られた小窓を開いて、御者役の兵士に怒鳴るように尋ねた。
「ばか者、閣下がお乗りなのだぞ?」
「ご無事ですか? 誠に申し訳ありません。前方の馬車が急に減速したものですからやむなく……今はもう止まっているようですが」
御者役の下士官はそう言いつつ、さらに馬車を減速させていった。
「こんなところでなぜ止まる? とにかく状況の説明をしろ」
「ぜ、前方の部隊は全車が停止。間もなくこの車もその後ろで緊急停止します」
「だから何故だ? 何が起こった?」
「こう暗くては前方の様子がわかりませんので原因は……うわ、あれはなんだ?」
御者の兵士は突然悲鳴のような声を上げると、絶句した。
夜の街道である。当然ながら視界がいいわけがない。明るい方の月であるアイスの光があればこそ馬を走らせる事ができていたのだが、さすがに細かい状況が遠くから見通せるものではない。
御者兵としても前を行く一隊が停車している地点に近づいてはじめて部隊が停滞した原因を知ることになったのだ。
御者はしばらく声を失っていたが、リーンに急かされると我に返り、行く手に何か大きなものがあると報告した。
「なんだ、これは?」
馬車から降りて「それ」を見たリーンの反応は、まさしく御者の兵と同じだった。
ほとんどの者の第一声は同じであったに違いない。
道が……彼らが進むべき街道が、そこで無くなっていたのである。
大型の馬車が二台列んで楽に走れる程の広さがあるラクジュ街道は、そこで突然行き止まりになっていた。彼らの行く手にあるのは、巨大な岩の壁であった。
まるで誰かが大きな煉瓦を街道の上にめり込ませたように、その岩の壁はラクジュ街道をそこで分断していた。
リーンはしかし、その事態を冷静に分析する時間を与えられなかった。
その壁の裾にある巨大な楡の老木の幹から呼びかける声があった。
「ドライアド王国軍、キャンタビレイ大元帥御一行様、だね?」
上から突然降ってきた声に、親衛隊はどよめき、たちまち混乱状態に陥った。
リーンはしかし、冷静だった。
いち早く矢を番えた兵に対し手を挙げてそれを制すると、彼は楡の木に向かって一歩踏み出し、梢を見上げると大きな良く響く声で問いかけた。
「何者だ?」
だが楡の巨木から聞こえた声はリーンの質問には答えなかった。しかし声の主は、岩を置いたのは自分であると自ら告げた。
「残念ながら君たちをこの先に通すわけには行かないんだよ」
兵達に再びざわめきが広がった。
「何のつもりだ?」
だが、楡の木からの声はこれにも答えなかった。
「悪く思わないで欲しい。今キャンタビレイ大元帥にこの先に進まれると色々とマズイ事になるんでね」
その言葉の意味を単純に考えるならば、声の主は明らかに敵という事になる。
兵士達には一様に緊張が走った。
リーンは想定していた最悪の事態に陥った事を観念した。だがエッダよりかなり手前でこういう事態になるのは想定外であった。
(くそ、こんな事なら! )
こんな事ならば、ガルフを縛り付けてでもノッダに留めておくのだった。
リーンは後悔したが、もちろんそれは後の祭りというものであった。
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