第五十話 エア 1/5

『非エーテル域』もしくは『精霊の墓場』などと呼ばれることもある一種の特殊な空間・地帯を指す普通名詞が「エア」である。

「エア」がなぜ特殊な空間であるかと言うと、そこには精霊波、いわゆるエーテルが存在しない。つまりエーテルをその力の源として能力に換えているフェアリーやルーナーは「エア」ではその力を発揮できない事になる。もちろん力の強弱には関係なく、意識・無意識に関わらずである。そもそも「エーテルが皆無」なのだから。

 エーテルの満ちた世界であるこの『ファランドール』でなぜそういう空間が存在するのかについては残念ながら定説がないのが現状である。

 一説では『エーテルの存在しない世界』すなわち『異世界』との干渉により生じた歪んだ空間であろうと説明されているが、何にせよ「エア」は特殊な自然現象の一種としてとらえられている。

 有名な「エア」としては、当時のウンディーネ連邦共和国の首都島アダンを含む一帯が挙げられる。しかしこんにち、その付近にはもはや「エア」は確認できない。もちろん人為的に作り出すことも不可能だとされている。

 三聖蒼穹の台が使った『神の空間』と呼ばれるものはこの「エア」を人為的に作り出した例だという説があるが、これも多くの伝説と同様でそれを証明できる術はない。

 ではそのエーテルが存在しない空間である「エア」を任意で作り出すことができる人間が存在するとしたらどうだろう? 

 まず戦争においては、戦闘能力できわめて優位に立てるフェアリーは普通の人間と同等となる。いや、むしろ先天的に持っている能力を頼りに戦っている事が多いフェアリーの場合、その力を失えば普通の人間の兵士よりも戦力としては低下する場合が多いと考えられる。

 例えば、力はないがその超人的な移動速度を武器としていたアルヴィンやダーク・アルヴといった小柄な種族の風のフェアリーの兵士がいたとしよう。その圧倒的な移動速度という武器をもぎ取られた兵士はただの小柄で腕力のない雑兵に成り下がるわけである。

 三聖蒼穹の台以外にこの「エア」を人為的に作り出せる者がいたという話はいくつかある。その一つに今では伝説となっているサラマンダのダーク・アルヴの隠れ里の一族が挙げられる。

 その話が事実であったとしたら、その里人達はいわばフェアリーとルーナーの天敵と言っていい存在であろう。


 大休止の後に結構な標高を稼いだ一行が、そろそろ一度小休止をとろうかと考え始めた時だった。その時最後尾を歩いていたアプリリアージェとファルケンハインが二人同時に歩みを止め、お互いに顔を見合わせた。

 アプリリアージェはすぐにそのよく通る声で前を行く一行に声をかけた。

「止まって下さい」

 いつにないアプリリアージェの鋭い声色に一行は何事かと一斉に歩みを止めて声の主を振り返った。

「おかしいのです」

 アプリリアージェの言葉に反応して早速駆けつけたティアナが何かを問いかけたが、それよりも先にファルケンハインが続けた。

「同じところを歩いてる」

 ファルケンハインの言葉を聞いたエイルは、はっとした。

「結界か?」

「ええ、おそらく」

 アプリリアージェはうなずいた。

「それに、もう一つ悪い知らせがあります」

 そう続けたアプリリアージェの顔は珍しく苦笑しているように見えた。

「エイル君は気づいていないのですか?」

「え?」

「どうやら、これは方向感覚を狂わせるただの結界ではなく、『エア』のようです」

「『エア』だって?」

「確かに、感覚が違いますね」

 アトラックは今そのことに気付いたようにそう言うと、自分の手を見た。

 

「『エア』……というと、あのアダンの?」

 一連の会話を聞いていたアキラはそう言うとル=キリアの一行とエイルを順番に見渡した。

 誰も答えない。だが、それが答えのようなものだった。

 ウンディーネ連邦共和国の首都島アダンの事を知っているなら話は早いという訳である。アキラに改めて「エア」について詳しく説明するまでもなかった。

 アプリリアージェにああ言われたものの、エイル自身は全く違和感は覚えなかった。もちろんルーナーでもフェアリーでもないエイルがエーテルの存在を感じる事はない。したがってそれは無理からぬ事ではあったが、それでもエイルは面目ないという風に目を伏せた。

「いえ、この場合は術者を褒めるべきでしょう」

 エイルの様子を見たアプリリアージェはとりあえずそう言ってエイルがそれ以上の謝罪や言い訳をする事を制した。

 だがエイルにしてみればまさに臍を噛む思いだった。エルデが起きていれば結界に入る前にそれと気づいていたかもしれないのだ。


『エルデ! 』


 エイルは少し前に眠りについた意識の中のもう一人の人格を呼び出そうとしたが、自らの意志で深い眠りについたエルデにはその声は届かなかった。今までもルーンを使い過ぎて疲弊した時、何度か同じ事があった。

 ただ、これまでの例であればエルデが眠りにつく場合は確実に安全な場所を確保して、自らに結界を張った後に眠りに入るのが常だったが、今回は油断があった。ル=キリア一行が一緒という事で安全だと判断したのだろう。いや、少なくとも大した危険はないと判断したのは間違いない。

 眠る直前のエルネスティーネとのやりとりで、仲間という言葉に気持ちがゆるんだのかもしれない。あるいは身をもってそれを実行したかったのだろうか。

 だが、今更そんなことを言っても始まらない。今回、初めて移動中に眠りについた事実はもう取り消せないのだ。

 普通の眠りと違いルーンなどで消耗した際の眠りに入ると、エルデはたとえエイルが呼びかけようとも答えない。おそらく外界からのあらゆる刺激に無反応になるのだろう。だから結局は本人が自然に眠りから覚めるのを待つ他にないのである。

 エイルは一度体をつねったり、自分で自分の頭をたたいたり、はたまた窒息する寸前まで息を止めてみたりした事もあったが、全て徒労に終わっていた。

『くそ。よりによって……』

 エイルは右手の中指にはめられた黒・焦げ茶・白の三色の指輪を見つめた。


「何か策でも?」

 めざとくその様子を見ていたアトラックがエイルにそう声をかけた。だがエイルは首を横に振った。

 そして小さく「ノルン」と呟いてみた。

 すると、例によって右手の中指に填められていた指輪は一瞬で精杖に変化して、エイルの手ににぎられた。

 それを見たアプリリアージェは、一瞬眉根に皺を寄せた。

 精杖はエイルでも出し入れ自体は可能になっていた。なぜならエルデがエイルの言葉に反応するようなルーンを精杖にかけていたからだ。

 そもそも「ノルン」はエイルの物理的な武器でもある。本来は剣士であるエイルは、そうは言っても普段は剣などの武器を持っていない。必要に応じてエイルがノルンに呼びかけ、それに反応して武器になるように予め設定されているのである。エルデによれば、それが「極めて合目的的な処置」と言う事だった。

 エイルが精杖を取り出したその様子は、一行にはエルデがルーンを普段通り使っているようにしか見えていない。


 アプリリアージェの違和感はそこにあった。

(「エア」であっても、あの精杖の変化には関係がない……という事は、あの精杖の変化はエーテルを使ったものではないと言うこと?)


 出来れば今回のようにルーンが使えない時間があると言うことを知られたくないエイルにとって、ノルンの取り出しはそれをごまかす為のいい判断だと言えた。どうしてもルーンが必要な状況が発生しなければ、という但し書きがつくのはしかたのないことではあるが。

 とはいえエイルは迷っていた。

 素直にエルデが眠っていることを告げるべきか否か。

 だが、この状態でそれを告げることはアキラにエイルとエルデの秘密を知られる事につながる恐れがある。隙だらけではあるが極めて頭脳明晰な人物であることは、アキラと普通にしゃべっていればすぐにわかる。それだけに適当な理由でごまかせるような相手とは思えなかったし、こちらが適当にごまかしていることが知れれば不信感をもたれかねない。ただでさえ普通ではないルーナーだと思われているからなおさらである。

(あ……)

 そこまで考えて、エイルはようやくアプリリアージェと同じ疑問につきあたった。

(ルーンは使えないけど、予めかけておいたルーンは発動するのか?)

 いや、かつてエルデに聞いた「神の領域」についての説明では、あらゆるルーンは無効化されるという事だった。では、「エア」と《蒼穹の台》が作り出す「神の領域」との間には何か大きな違いがあるのだろうか? 

 だが、その質問をぶつけるべき相手は今、そこに存在していない。

 エイルは考えた。

「エア」であるとアプリリアージェが認識したと言うことは、少なくともフェアリーの能力は無効化しているということだった。

 フェアリーとルーナーで構成されるエイル達一行の戦闘力の基盤はエーテルだ。そのエーテルがない空間であるにもかかわらず一部の組み込みルーンは発動した。

 ひょっとしたらルーンだけは使える特殊な「エア」なのかもしれない。

 だが今は、どちらにしろそのルーンを使える唯一の人間はいないのだ。

 つまり、現時点での一行の戦力は、考えられないほど低下している状態だということだった。

 この状態で何かが起こったら? 

 今は何もまだ起こってはいない。しかしエイルは、なぜか全身で感じる嫌な予感に思わず唇を噛んでいた。

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