第四十二話 アキラ・アモウル・エウテルペ 6/6


(まさか? )

 アキラは慌ててミリアがいる奥の方を振り向いた。

 確かに入り口から死角になっているミリアの席ではあった……だが、そこにはもう気配すらもなかった。まるでエールビールの泡のように消えてしまったのだ。

 それは彼にしてみればいつものことで、店の給仕にしても今夜あそこの隅の席に金色の瞳をした派手な出で立ちの、人の良さそうな笑顔が印象的な旅の若者が座っていたなどと言うことを一切覚えてはいないだろう。

 ――すべてミリアの能力のなせる技で。

(まさか、な)

 アキラは空席から目をそらし、ついでに今一瞬脳裏に浮かんだ考えを自嘲気味に振り払って店の外に出ると、深呼吸をしてよく晴れた夜空を見上げた。

 そこには二つの月、明るいアイスとやや暗いデヴァイスが仲良く並んでアキラの姿を照らしていた。


 背後に二つの気配を感じたアキラは、振り返らずゆっくりと歩き出すと、最初の路地を曲がった。二つの気配も同じようにそれに続いた。

「特に不審な者はおりませんでした」

 路地に入り込むと、影のようにアキラに近づく者があった。

 それはデュナンの若い女で、長めの茶色の髪を無造作に一つに束ねて左に流していた。その出で立ちは軽装の旅装束と言ったところだろう。ただ、それは若い女のものというよりは若い男の服装と言った方が適当のようで、およそ華やいだ装飾一つないものだった。もっとも身のこなしや言葉遣いから、その女がただの旅人でないことは知れた。

 彼女はアキラの腹心の一人で、護衛役をも兼ねている人物だった。


 かろうじて聞こえる程度の声でそう告げられたアキラは、軽くうなずくと、その女に呼びかけた。

「ブライトリング大尉」

「はっ」

「大尉は賢者に会ったことはあるか?」

「賢者というと、正教会のあの賢者ですか?」

 ミヤルデ・ブライトリング大尉は怪訝な表情を隠さず、そう聞き直した。

 アキラは小さくうなずいた。

「戦力としてみると、一人でも計り知れぬ力になるそうだが……」

「そうですね……」


 ミヤルデは当惑していた。

 アキラは唐突にこういう事を尋ねる事があるのだが、それが果たして思いつきなのか、作戦に関係したものなのかがミヤルデにはわからなかった。

 しかし、若くして軍のかなり深部に繋がりがある自分の上官が常に並大抵ではない戦略を頭の中で巡らしているであろう事は容易に想像がついていた。単なる副官の一人であるミヤルデは、その戦略の内容を洗いざらい話して欲しいとまでは思っては居なかったが、より深くその内容が知りたいのは確かだった。

 なぜならアキラの考えていることがある程度でもわかりさえすれば、自分はもっと役にたてるはずだと、忠実な副官は考えていたのだ。

 彼女の上官は、その夜のように気晴らしと称して時々お忍びで町の酒場に一人で出かけ、好物のエールビールのジョッキを数杯空けてくる事があった。もし許されるのならば、その店で一緒に杯を傾けてアキラの話し相手をすることが出来れば……そしてそれが軍務ではなく極めてとりとめもない個人的な話であればなおさら、より深くアキラの事が理解でき参謀として、今より有能でいられるのに、とおもっていたのである。

 ミヤルデはチラリと上官の様子をうかがったが、双月を眺めるアキラにはその思いは届いてはいないようだった。もちろんミヤルデとしてもそれが分不相応で独善的な願望であることは理解していたから、アキラの態度にがっかりするようなことはなかった。

 そんなミヤルデにとってせめてもの救いはアキラはそのささやかな楽しみの席には、誰であろうと一切誘わないことであった。


「一部の伝説やおとぎ話では、賢者一人で一国を滅ぼした事もあるとされています。それを鵜呑みにするのはいささか浅慮に過ぎるとは思いますが、伝説になるだけの、つまりはそれなりの能力を持っていると思うのが妥当なのでしょう。先の大戦でも少数の賢者が暗躍して、いくつかの戦場で戦局を支配していたと言われています」

 ミヤルデはそこまで話して、そんなことはアキラとて既に知っている事だと気づいた。そして慌てて弁明をした。

「申し訳ありません。私は賢者と言われる人間に会ったことがありませんので、大佐がご存じであろう以上の情報を持ってはおりません」

 アキラは小さくため息をついた。

「別に謝る必要はないさ、ミーヤ。賢者をよく知っている人間など、教会の上層部の人間を除くと、このファランドール中を探しても賢者自身くらいだろうさ」


 アキラが階級や姓でなく、そしてミヤルデでもなく「ミーヤ」と呼ぶときはいたわる言葉をかける時だった。この時も期待に答えらなかったと思い込んで恐縮したミヤルデに対して気遣いを見せたわけである。

 自分の利益や出世を第一に考えるか、女と見ると欲望の相手としてしか見ないような男が多いドライアド軍の中、いつも遠くを見ているようでつかみ所のないアキラ・エウテルペは、ミヤルデの目からは極めて異色の存在に映っていた。彼女自身はそう指摘されると頭の中では否定するであろうが、おそらくはアキラという上官に心酔していたに違いない。

「その賢者がどうかなさいましたか?」

「いや……」

 アキラは気がなさそうに手を挙げてひらひら振ると、この話題はこれまでと言った風にこう言った。

「なに、さっきの店の中で酔っぱらいが生きているうちに賢者様に会いたいとか、奇跡の力を持っているとか話していたのが耳に入っただけだ。そんな力があるなら我が陣営に是非欲しいものだとこちらも軽い酔いに任せて思ってしまったものだから、つい、な。まあ、気晴らしとしても興味深い与太話だったので聞き入ってしまったというわけさ」

「そうでしたか」

「それより私は明日付けである特務につく。お前達にはまたしばらく苦労をかけるがよろしく頼む」

「もとより」

 ミヤルデはそう言って黙礼するとアキラの傍をすっと離れた。

 彼女はアキラの参謀という立場と同時に護衛の役も兼ねていた。従ってアキラがこういったお忍びで町を歩く時にはつかず離れずの位置に身を置き、自分の役割を忠実にこなしていた。

 もっとも、剣の腕前ではドライアド軍でも一目置かれているアキラに果たして護衛が必要なのかどうかは疑問ではあったが。


「特務ですか」

 ミヤルデの横でもう一人の小さな影が呟いた。

 アキラのもう一人の腹心、セージ・リョウガ・エリギュラスである。

 附名の存在が示すとおり、彼はツゥレフ島の出身である。幼少よりアキラの臣下として育ち、付き添ってきた仲であった。

 階級が上がったアキラがツゥレフの軍をまとめていたセージを幕僚として招聘してからは、常に腹心として傍に置いていた。いわばアキラがもっとも信頼している人間である。

 ミヤルデと並ぶセージのその小柄な影と、時折月明かりで照らされる褐色の肌は彼がデュナンではなくダーク・アルヴの血を引く種族である事を示していた。ドライアドでダーク・アルヴの兵士は珍しい存在であった。


 アキラ・アモウル・エウテルペという人物は聡明ではあるが、同時に一人の剣士としての性格も強い人物であったようだ。時として戦略や戦術という理詰めの戦いよりも一対一の真剣勝負を優先させるきらいがあった。それが『レナンス』の気質と言ってしまえばそれまでだが、それこそがアキラの最大の弱点と言えるだろう。つぶさに検証していくと、ミリアはアキラのその欠点を的確に把握していた事が伺える。とはいえアキラが凡庸な人物でなかったのは、自らのその性格の欠点を認識していた事であろうか。自分の『綻び(ほころび)』を補うべき人物を腹心に据えたことがその証左であろう。

 つまり、セージという人物はアキラが一人の戦士となった際、それを制御する役目を担っていたのである。

 アキラのような所謂高級軍人の護衛を行える程であるから、ミヤルデだけでなくダーク・アルヴとはいえセージ自身の戦闘力もおそらくは相当なものだったに違いない。それだけにアキラの信頼も誰よりも厚かったと思われるのだが、セージは一度も筆頭の部下という地位にその身を置くことはなかった。常に二番目、三番目以降の立場にあり、その地位にふさわしく振る舞っていた。

 アキラと同郷という背景もあり、特別扱いされていると見られる事を避けた為であろう。アキラも決して特別視するそぶりを一切見せず、他の部下に対する「示し」を付けていたようである。

 セージ・エリギュラスについての詳細な記録は多くないが、百年ほど前に発見され、編集された後に「月の大戦におけるブライトリング録」という題で出版されたミヤルデ・ブライトリングの個人的な日記と書簡、そして軍務として記録していた公式な日誌を混在させた資料に、血の通ったセージの姿が描かれている。それにより一躍脚光を浴びる存在となったセージだが、その点についてはここで詳細に述べるまでもないだろう。歴史や「月の大戦」文学に興味のある読者なら既にご存じの通りの人物である。

 一言だけ書き添えるならば、それまでは普通の剣士だと思われていたセージだが、「ブライトリング録」で炎のフェアリーであることが記されていた。その真偽の程が専門家の間ではたびたび論争になっていたが、その既述を裏付けるような資料が近年ツゥレフ島に残る資料の山から発見されている。



 ミヤルデより浅い、茶色というより栗色のくせ毛の髪をしたダーク・アルヴの中尉は、ミヤルデと並んで、のんびりと前方を歩くアキラを見失わない距離を空けて追尾していた。ダーク・アルヴの特性で一見少年にしか見えない外見はおよそ戦闘員であるとは思えなかった。目つきも穏やかで、隣のミヤルデの方が近寄りがたい雰囲気があった。

 主の最終的な行き先が宿舎にしている宿であることはわかってはいた二人だが、アキラは極めて気まぐれな経路をとることが多いので油断は禁物だった。あまりに離れすぎるとたちまち見失う事になる。


「いつも通りだ。今は何もお話にならなかった。明日、詳細は聞けるだろう」

「そうですね」

 上官であるミヤルデがそう告げると、セージは相づちを打った。その上で、独り言にもとれるような小さな問いを投げかけた。

「あの酒場で、大佐は本当に一人だったんでしょうかね」

「エリギュラス中尉」

 強い調子で即座にそう叱責したミヤルデに、セージは思わず苦笑した。

「聞き流してください。ただ、いつも思うのですが、どうにも大佐は我々が知らない情報を知りすぎていると思いましてね。その特務もいつ誰から受けたのでしょうね」

「その特務の為にここに来たのであろう? だいたいそれは我々が詮索すべき事ではあるまい?」

「もちろんです。何があろうと私は大佐に死ぬまでついて行くだけです。ただ」

「ただ?」

「あの方をもっと知ることが出来れば、今よりもさらにお役に立てるかもしれないな、と思っただけです」

 それだけ言うと、セージはチラリと自分の上官の様子をうかがうように視線を向けた。


 セージのその言葉に、しかしミヤルデは何も反応はしなかった。

 ただ、一緒にアキラの警護をしている相棒である人間が、自分と全く同じ気持ちを胸に抱いている事が再確認できたようで、温かい気持ちがわき上がってくるのを感じていた。とはいえ、その感情をミヤルデがセージに示すことはなかった。

 自分の胸に浮かんできたその感情に対する照れ隠しという訳でもないのだろうが、ミヤルデは普段より厳しい口調で、部下に告げた。

「無駄話はここまでだ」

「はい」

 その言葉を待っていたかのように、アキラはのんびりと歩いていた人影のない裏通りから、不意に路地に入り込んだ。


(気まぐれの散歩が始まったな)

 二人の護衛は気を引き締めるようにお互いにうなずき合うと、早足でその後を追った。


(潜入か……)

 一方アキラは二人の存在など頭にはないかのように、店を出てからずっとミリアの話をつぶさに吟味していた。

 一国の王女が、身分を隠して他国に潜入するなど、文字通り本当に歴史の流れを大きく変えるような出来事に違いなかった。

 ミリアの話からは、エルネスティーネ王女一行が一体どのような行動をとっているのかという実態を探れという目的よりも、むしろしばらく護衛しろという意味合いが強く感じられた。アキラにとってはそちらの方が当然ながら気が楽だった。

 確かに今、エルネスティーネに死なれてはならないのだ。それはシルフィードの為でも何でもなく、単純にミリア・ペトルウシュカ陣営の都合と言うべき理由でである。

 既にミリアによって用意されている歴史書の一頁を実現させる為に。


 アキラは二杯のエールビールで少しだけほてった頬を夜風で涼めながら、ミリアに教えられた宿……もちろん風のエレメンタルが眠る宿を確認しておこうと、またもや別の路地へ曲がると、今度はその歩みを速めた。

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