第三十七話 賢者の弟子 2/4

「そう言うことや。手に持ったカップを地面に置く。テーブルの右側にあるカップを左側に置く、その動作をするときにいちいち右の肩の関節を何度、どちら側に動かして、つぎに肘をどれくらい開いて、筋肉の緊張度合いはどれくらいで、どの段階で弛緩させたら指は開くとか、その時の人差し指と親指との相対角度はどれくらいで、そもそも視点はどこに置いておくべきか……とか考えへんやろ?」

 ファルケンハインとアトラックは顔を見合わせてから、改めてエルデを見てうなずいた。

「まあ、そうだな」

「ルーンも同じ事や。カップを地面に置くルーンがあるとするなら、カップを移動させる視覚的な感覚が、ルーンの詠唱。それに伴うエーテルの制御が筋肉の動きとか緊張の度合いや間接を挟んだ二つの骨同士角度とかやな。両者が揃ってはじめて、ルーンと呼ぶんや」

「ふむ。そう説明されると何となくわかる」

 エルデは頷いた。

「ルーン自体はなんやかんや言うて詠唱する必要があるから、そもそも詠唱せな事が発動せえへんけど、術者はそのルーンの文字の意味を考えながら詠唱しているわけやない。右手でカップを掴むようにルーンを使うだけや。言い換えるならそれが出来る人間をルーナーと呼ぶんや」

「なるほど」

「ルーンの修得に時間がかかるのはその意識・無意識の壁を取り除く時間の事やな。多くのルーナーはその感覚を自分のものにするのに時間をかける。特にエーテルを纏う感覚を無意識の段階まで高めるのが難儀なんや。その感覚をより自然に、まるで当たり前のように感じるまで、場合によっては何千回も何十万回も、期間も一年でも十年でも修得出来るまで鍛錬するっちゅうわけや」

「ふむ。つまり、おまえさんはそういう鍛錬がいらないということか?」

 エルデはうなずいた。

「これは自慢でも何でもないやけど、俺はそのルーンを一度読むと、もうそれが自分の普通の動作として身に付いてしまうねん。そやから、普通の人間がルーン自体の修得にかける時間がほとんど必要ない。俺の問題はルーン修得そのものやのうて修得したルーンの力加減が理解でけへんことやった」

「ルーンの力加減というのは?」

「うーん、せやな……」

 エルデは腕組みをして空を見上げ、その格好のまましばらく思案していたが、思いついたように言葉を続けた。

「火事場のバカ力っていう言葉があるやろ?」

「ああ。人間、いざとなったら普段では信じられないような力が出るというやつだな」

「もともと人間は自分の体を守るために、無意識のうちに自分の力を制御しているっていう話も知ってるか?」

「もちろん知っている。本来人間は種族に関係なく潜在的にかなり強い力を持っているが、その力を全て使ってしまうと関節などがその力の強さを受け止めることが出来ない為に無意識のうちに保護機能が働いて持っている力をかなり制御するように出来ている、というやつだな?」

「そう。まさにそれやな。言ってみれば俺は『この壁を殴ってみろ』って言われたら常に火事場のバカ力とやらで壁を殴りつけてるようなもんやったんや」

「それは……」

「ああ、皮膚は裂け拳からは骨が突き出て、手首は折れるし、肘の関節も外れるし、靱帯もブチ切れるわな。筋肉はもちろん断裂や」

 ファルケンハインとアトラックは思わずお互いの顔を見合わせた。

「物理的な腕力とか筋力だとそう言うことだろうが、ルーンでそれをやるとどういう事になるんだ?」

 エルデはその問いに対して苦虫を噛み潰したような顔をして見せた。いや、苦しそうな顔だと言った方がいいかもしれない。


 だが、彼は少し間を置くと話し出した。

「例えばいわゆる攻撃系のルーナーが最初に覚える基本的な炎属性のルーンがある。俺が今柴に火をつけたのがそれやけど」

 ファルケンハインは何も言わずにうなずいた。ルーナーについてある程度理解のある人間はそう言うルーンを知識として知っていた。もちろんそのルーン自体、誰でも修得できる類のものではないのだが、それでももっとも低位の攻撃系ルーンの一つとして、多くのルーナーが数年かけて修得するルーンであった。

「知っているなら話は早いな。このルーンの破壊力は平均的なルーナーで大体自分の前方三メートルくらいまでの距離にいる人間の髪の毛を焦がすか、皮膚に軽いやけどを負わせる程度のものなんや」

「主にランプや薪に火を付けたりする実用のルーンだったな」

 ファルケンハインが言った。

「俺は正教会のミサかなんかで複数のルーナーが並んで儀式の景気づけにやっているのを見たことがありますよ」

 アトラックの方を向くとエルデはうなずいた。

「そうやな。あまり制御せずに拡散すると前方広範囲に一瞬だけ真っ赤に燃え上がる炎やから、神秘性を演出するのによく使われてるし、ファルの言うとおり、制御してたき火を作ったりちょっとした着火用に使うこともある」

「それをお前が制御無しに使うとどうなるというのだ?」

 エルデは一段と顔をしかめると唇を噛みしめてうつむいた。一体何があるのかわからないが、無制御のルーンを使ったことで何か強い心の傷を受けたことは間違いないようだった。

 それは本来話したくはないことなのだろう。だが、今この話の流れの中でそれを明かしてくれようとしているエルデに対して、エイルは彼の変化を感じていた。だからこそ、先をせかそうとせずにただ待つことにした。

「あれは、師匠に最初に教わったルーンやった。俺達はまずそのルーンを教わって、いきなり一人ずつシグの爺さんの前で修得できているのかどうかを試されてん」

「俺達?」

 思わずアトラックがエルデの一言に突っ込みを入れた。ファルケンハインがしまったと思って睨み付けたが、それはもう後の祭りだった。

 だが、エイルは今度はこともなげにそれに答えた。

「その時、十人くらいいたかな。師匠が世界中から集めた賢者候補生、つまり弟子やな。「師」の資格がある賢者はほぼ十年に一度、だいたい少なくても十人、多いのが好きな師は百人くらいいっぺんに候補生を集めて修行を始める。ま、最後まで残るのは良くて一人。ほとんどは数年で脱落して賢者までたどりつけへんけどな。それに「師」の元に来る前段階でも結構な数がふるいに掛けられているはずや」

 黙って聞いていろ、とファルケンハインに睨まれたアトラックは了解して首を竦めて見せた。

「もともと師匠が集めたのはルーナーばっかりでフェアリーはおらへんかった。そしてそのルーナーも師匠の眼鏡にかなった元々素質がある人間ばかりを集めてるわけやから、粒ぞろいや。そやから普通なら最低でも数ヶ月かかっておかしくないその一番基本のルーンはほとんどみんなすぐに修得した。もっともそんなルーンは既に習得済みの奴ばっかりで、中には中位ルーンの一部を既に修得済みのヤツなんかもおったけどな」

 エルデはたき火を見つめながらそこまで言うと空を見上げて少しの間沈黙した。

 ファルケンハインもアトラックもさすがに続きは急かさなかった。

 しばらくすると視線を再びたき火に移して、話を続けた。

「それは言うてみれば試験みたいなモンで、俺はその時の弟子の中でも一番年下やった。その試験は年長から始めたから、俺の番は最後やった。ある一人を除いて全員ルーンを修得してた。俺の方は初めてルーンというものを教えてもらって、自分が果たして上手くできるのかどうか不安やった。それでぐずぐずしていた俺にシグの爺さんがイライラしながらさっさとやれ、って言うたもんやから、俺は慌ててその低位ルーンを唱えた。そしたら」

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