第三十話 スプリガン
「上手く逃げられたようです」
ウンディーネ風の旅装束を纏ったデュナンの男が小声でそう告げた。
「なんだと?」
薄暗い店の片隅で陶器のタンブラーに入ったビールを飲み干していた同じく商人風の男はそれを聞くと、不機嫌そうに音を立ててタンブラーをテーブルの上に置き、そう吐き捨てるように言った。
短く刈り込んだ男の髪は茶褐色で、がっしりとした顎が意志の強さを主張しているかのようだった。窪んだ眼窩の奥からは鋭い眼光が覗いていた。種族は同じくデュナンのようだ。
「この状況で取り逃がしたのか。ウーモスには明日にもあの鼻持ちならん若造がやってくるんだぞ?」
「た、大尉、さすがにお言葉が」
最初に声をかけた男が狼狽(うろた)えたように周りを見回した。
「フン、何を気にすることがある。たとえ相手が総司令だろうが誰であろうがしょせん爵位も何もないただの雑魚ではないか。聞けば家督の継承権もない妾腹だそうな」
「しかし、総司令には絶対人事権もありますし、今回の事は少々マズいのでは」
「そこがいまいましいのだ。なぜあんな青二才がスプリガンの総司令などという立場にいるのか。ペトルウシュカ男爵の腰巾着風情のくせに」
「その男爵ですが、近々公爵家を継ぐのではないかという噂がございます」
「まあ、あのバカ公爵なら時間の問題だろうな。王の特権で強制的に爵位を剥奪されても誰も何も言うまいよ。まあもっとも、『バカだから』、という理由ではちと弱いな。弟にしても兄を失脚させる決定的な理由が欲しいところだろうて」
「大尉も今のうちにペトルウシュカ男爵と通じておかれる方が良いのではございませぬか?」
側近の男の言葉に、大尉と呼ばれた男は見るからに不快そうに足を踏みならしてみせた。
「お前ごときにそのような事を言われる覚えはないわ」
側近の男はビクっとして肩を竦め、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません」
「フン、お前に言われずとも手は考えておるわ。だからこそル=キリアの首は手みやげになったものを。あそこは構成員のほとんどが尉官か佐官らしいからな。功労も大きいはずだ」
大尉はそう言って大きくため息をつくと、椅子に深々と腰を下ろした。
「で、天下のスプリガンともあろうものがなぜ失敗した?いかに風のフェアリーと言えどあの場所では袋のネズミだったろうに?」
側近の男は再び深々と頭を下げてみせた。そして、そのままの状態で答えた。
「誠に申し訳ありません、ザワデス大尉。実は」
「なんだ?」
「恐れながら申し上げます。どうやら向こうには高位のルーナーが居たようです」
「ルーナーだと?『風のル=キリア』にか?」
「我が隊のルーナーが言うには、脱出には姿を消す高位ルーンを使ったのではないかと。廊下で姿が見えない何者かにぶつかったと言う兵士もおりましたので、転移ルーンではなく、姿を隠すルーンだろうと言うことです」
ザワデスは腕組みをして小さくううむ、と唸った。
「どちらにしろ、それほどのルーンを使えるヤツがル=キリアにいたと言うことか?」
「あの地下へ入ったのは、フェアリーのレイン中佐と同じくスリーズ大尉、それに旅の子供の三名ですから、おそらくその子供がルーナーでしょう」
「一応、ユグセル公爵の滞在している宿はルーナー部隊に包囲させていますが、いかがいたしましょう?」
ザワデスは大振りの酒壺から手酌でビールをもう一杯タンブラーに注ぎ入れると一気に飲み干して立ち上がった。
「急襲に失敗したのだ。もう手は出すな。相手が相手だ。下手な監視はせずに全部隊を撤退させて、当初の目標に当たらせろ」
「は。しかしみすみすの手柄をよろしいのでしょうか?」
報告に来た男はおそるおそる伺いを立てた。
「手柄だと?」
ザワデスは小さく鼻を鳴らした。
「お前のその頭の中が空洞でないなら俺の言ったことがわかるはずだ」
「と、申しますと?」
「我が部隊に姿を消すルーンが使えるほどのルーナーがいるのか?」
「そういうルーンを使える若いルーナーがバード庁に居るとは聞き及んでおりますが、残念ながら我が軍にはおりません」
「その特級バードと同等のルーナーを相手に、低位のルーナーどもが一体何をどうするというのだ?」
「は」
「下手に近づくと容易に返り討ちにあいかねん。中途半端な監視も同様だ。スプリガンは完全に姿を消さねばならん。いや、スプリガンが動いたという事実は残してはならん。下手をすると政治問題になりかねんのだ」
「は。承知いたしました」
「急ぎ伝えよ、ケニック。なあに、連中の行き先はわかっているんだ。罠を張っておけばいい。今手柄を焦る必要はない」
ケニックと呼ばれた部下は深々と頭を下げると、風のようにその場を去った。ザワデスは忌々しそうにケニックが去った方向を見つめると、軽く舌打ちをした。
「フン。ついでの手柄にしようと思ったが、さすがはル=キリアというところか」
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