第二十八話 伝信
「もう一度言ってください、アトラック・スリーズ」
「はっ」
こわばった顔のアトラックに、アプリリアージェは努めて冷静に声をかけた。
少し離れた椅子に腰をかけて弓の手入れに余念がなかったテンリーゼンの手も止まっていた。
朝食後、アトラックはウーモスにある伝信所に向かった。そこで彼が手に入れた報告は普段何事にも動じないテンリーゼンの手をも止めさせるだけの内容だった。
「ル=キリア別動各小隊からの経過報告ですが、目標発見の報の後、結果報告は一切無く、その後も報告はとぎれたまま一切続報が入っていないとのことです。それも全小隊」
「ロールルからも、ドリヴルからも、フルネからもですか?」
「はい……」
「――フリスト隊からもなのですか?」
「我が小隊を除く全小隊、音信不通……です」
アトラックがそう答えた後、しばらくの間沈黙が続いた。
その沈黙に耐えられず、アトラックは口を開いた。
「全滅……なのでしょうか?」
「それはまだ口にしてはいけません」
「はっ」
アプリリアージェは改めてエイルの言葉を思い出していた。『ザルカバード文書』に記載されている庵は全部偽物であると。
アトラックは直立姿勢のままでアプリリアージェの次の言葉を待った。
彼の司令は全くいつもと変わらぬ様子で静かに微笑んだまま頬杖を突いて何かを考え始めたようだった。だが、そのいつもと同じはずだった様子が変化したのをアトラックはそのわずか数秒後に感じた。
部屋の空気がトゲトゲしくざわついてきたような妙な感じが肌に伝わってきたのだ。
彼はその感覚には覚えがあった。そしてそれは戦慄を伴う記憶であった。
だが、彼にはもはやゆっくりと記憶を探っているような時間は与えられてはいなかった。理性より速く本能が警鐘を鳴らしはじめ、それは鋭い爪となり冷静な思考を行おうとする努力を切り裂いた。そして次の瞬間にはアトラックを構成するすべての細胞が悲鳴を上げ、彼の意識は絶望を伴う恐怖という闇に包み込まれていた。
「司令!」
(しまった)
アトラックは心の中で舌打ちをした。彼に出来る、それが精一杯の事であった。そして同時に観念した。
(こりゃもう、間に合わないな)
口に出る事はなかったものの、心の中であっても、形になった言葉を絞り出したことにより理性の再構築に成功したアトラックは恐怖を諦念にまで昇華させることに成功した。そしてその目にはアプリリアージェの周りでパチパチという音とともに紫とも青ともとれる不気味な光がまとわりつき始めている様が映った。
部屋の空気のざわめきはますます大きくなっていた。見るとアプリリアージェの黒髪がざわざわと逆立ち始めているではないか。
アプリリアージェが纏うエーテルが暴走を始めているのだ。それも特定の方向性を持つ力を得て、さらに増幅されていくようだった。
そして、当のアプリリアージェの表情は苦痛に歪んでいた。
(押さえられないんだな)
アプリリアージェのそんな顔を、アトラックは初めて見た。そしてそれが絶望を意味していることは彼にはよく分かった。
その時。
「リリアっ!」
エーテル化して届くテンリーゼンの声がアトラックの耳元にも届いた。そう思った次の瞬間には白い光が部屋全体を覆うように広がり、全員がそれに包まれた。
制御しようと自らと格闘して苦悶の表情を浮かべるアプリリアージェの体の周りで光り続ける紫の光が増大するのを確認した後に訪れた白い光は、アトラックの視界を奪った。
ややあって白い闇とも言える光芒がその場を退いた後、その部屋には何事もなかったかのように三人が先ほどと同じ姿勢で佇んでいた。
アトラックにとって長い時間が経ったように思えたが、彼が司令官の異変を感じて視界を白い闇に奪われるまではほんの数秒であったのだ。
「ありがとう、リーゼ。もう大丈夫」
今し方みせた苦悩の表情は去り、アプリリアージェは普段の表情でテンリーゼンにそう声をかけると、アトラックに対しても済まなさそうに詫びた。
「ごめんなさい。またやっちゃったわね」
平静を装いながらそういう額には、玉のような汗が浮かんでいるのをアトラックは見逃さなかった。
「気にしないで下さい。まあ、正直言うと今度こそダメだって思っちゃいましたけどね」
アトラックは引きつった笑いを浮かべてそう答えるのがやっとだった。彼自身の額にも脂汗が滲んでいた。
だが、そつのない彼はそう言った言葉の後に、こう付け加えるのは忘れなかった。
「でも、俺の命は司令に預けていますからね。そうなったらなったである意味本望です。だからくれぐれも、気に病まないで下さいよ」
アプリリアージェはアトラックのこの言葉を聞くと、恥ずかしそうにうつむいて小さくため息をついた。アトラックの目に映るその姿は、本当に普通のか弱い少女のようだった。
おそらくテンリーゼンが居なければこの旅館ごと吹き飛んでいただろうと、アトラックは額の汗をぬぐいながら思った。
アプリリアージェのエーテルが漏れ出して暴走する事は、すなわちそのような事故を伴う事を意味していた。
もちろん、そんなことが滅多にあるわけではない。彼の記憶でも年に一度もない。
そのたびにテンリーゼンの強大なエーテルがそれを包み、アプリリアージェの力を相殺して事なきを得ているのである。
アプリリアージェが常にテンリーゼンを自分の傍に置くようにしている訳を知っているのはル=キリアの隊員を別にするとおそらく軍の上層部のごく一部だけであろうと思われた。
類い希な能力を有する提督は、自軍を壊滅状態に追い込むかもしれないという大きな欠陥をも抱えているのである。その弱点を無くす存在がテンリーゼンの特殊なエーテル結界なのだ。アトラックは二人の提督の組み合わせをそう理解していた。
そしてアプリリアージェの向こう側にいる小さな影を確認すると改めてアトラックは戦慄する。強大な雷の力を纏うアプリリアージェの力すら一瞬で飲み込むテンリーゼンの底の知れない力に。
「とりあえず、エイル君と話をしましょう」
短い沈黙の後にそう呟いたアプリリアージェの言葉にアトラックはうなずいた。
彼にしてもそれしか思いつかなかった。どうやらすべてはエイル・エイミイの言ったとおりになっているのだから。
もしもエイルに出会わなければル=キリアの四人は最初の庵に迷わず向かっていただろう。そしてル=キリア所属の他の五小隊と同じ運命……いや、それがどういう運命なのかは定かではないのだが……少なくともあまり愉快な目に遭ってはいなかったであろう事だけは想像できた。
さらにアトラックの手前味噌を説明するとすれば、そのエイルと同道することを決めた司令官の先見の明にも改めて感心していた。
「エイルは副司令と調達屋に行っているはずですね。ただ、その後街をブラブラするというような事を言ってましたから、ここで待っていたらいつになるかわかりませんよ。この時間だとおそらくまだ夕べの調達屋にいるでしょうし、ここは私が迎えに行ってきます」
「そうですね。お願いします」
司令官と共にいた部屋の扉を閉めると、アトラックははじめて大きなため息をついた。だがそれは、九死に一生を得た事に対する安堵というよりは、生を確認する為の深呼吸と言った方が良かった。
とはいえ、アトラックの心の中には安堵だけでなく一抹の不安も同居していた。
アプリリアージェの制御力が極端に落ちていたのである。過去の事例に比べて今回の暴走はエーテルの拡大が桁違いに速く、風のフェアリーのアトラックをして逃げる時間がないと判断するほどだったのだ。
アトラックは彼の上官に異変を感じていた。
だが、首を振ってその不安を振り払うと、アトラックは頭を切り替えた。
ル=キリアが全滅したかも知れぬ事実は、さすがに司令をして冷静ではいられない事態だったのだ、と。つまり、今までにない大きな感情のうねりがあそこまでの暴走を引き起こしたのだろうと考えることにした。
アプリリアージェの制御力に何か変化があるわけではないと。
そう自分に言い聞かせた後、アトラックはもう一度小さく深呼吸をして、大股で歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます