第十六話 笑う死に神 3/3
『なんていうか、調子狂うよね、この人って』
[くそ。なんかもうどうでも良くなってきたわ。後は任せる]
『え?おい。そりゃないだろ?こんな状況にしといて』
[今回のやりとりでこのオバハンとまともにやりあるのはばかばかしいっちゅうのがわかったのがせめてもの収穫やな。もう、やめやめ]
『オバハンって』
[この女、ああ見えてたぶん三十歳は超えてるで。お前より十以上も年上や。くれぐれも言うとくけど、アルヴ族の外見には惑わされなや]
「ああ、調子狂った。もうええわ」
少し間を置くと、エイルは右手で頭を掻きながらめんどくさそうにそう言った。
「せやけど、今後はくれぐれも頼むで。今回の事は一つ大きな貸しや」
「そうですね、わかりました。一つ借りておきます」
エイルはため息をつくと部屋の出口に向かった。だが、二歩ほど歩くと立ち止まってアプリリアージェの方を振り返った。
「そう言えばさっき気に入ってるって言ってたけど、死に神と言われるのが好きってことなのか?」
振り返る前と後の一瞬で、エイルの雰囲気がガラリと変わった事をアプリリアージェは感じた。言葉遣いなどから、振り返った時にしゃべったのはエルデと入れ替わったエイルなのだが、もちろんそれはアプリリアージェにはわからないことだ。だがエイルという人格がやや特殊なものであることはすでに承知していたので、雰囲気の違いに対して特に動じる事もなかった。だが興味深い観察対象だと、改めてそう思っていた。
エルデはといえば、アプリリアージェの毒気に当てられたのか、何か違う事を考えているのか、その後しばらくは沈黙していることになったのだが、もちろんそんなことを他人は知る由もない。
「死に神と言われることが好きか、ですって?」
振り返ったエイルに、アプリリアージェはそう確認した。もちろんちゃんと聞こえていた。敢えて問い直したのはエイルともうしばらく会話を続けようと思ったからであろう。
「さっきそう言ったよね」
「ああ」
アプリリアージェは思い出したようにそういうと髪を乾かす手を止め、エイルからすっと視線をはずした。エイルにはその視線が隣のベッドルームに続く扉に移ったように見えたが、すぐにアプリリアージェは上を向いた。とは言え、天井を見ているのではない事は、すぐに目を閉じたことで知れた。
数秒くらいそうしていただろうか。アプリリアージェは椅子から立ち上がると持っていたタオルをテーブルの上に置き、バスローブ一枚の姿でエイルの正面に立った。
「私が死に神と言われる本当の理由を教えましょう」
「え?」
アプリリアージェはそう言うと今度は後ろを向き、ためらいなくバスローブを脱いだ。
「うわ」
その大胆な行為に対して思わず声を上げたエイルだったが、アプリリアージェの背中を見た次の瞬間には、思わず上げた声を失うことになった。
くびれた腰の下には少女のような顔に似合わず、意外に大きく張った、形のいい尻があった。アプリリアージェはその下の腿のあたりまでローブを下ろしていた。褐色の肌をしたその少女の、均整のとれた後ろ姿は美しいとエイルは思った。だがエイルは裸の少女の後ろ姿を、ときめきをもって見る事はできなかった。
なぜならそこにあったのは、少女の裸や女の裸体などという、およそ艶っぽい言葉で形容するようなものではなかったからである。
そこには紛れもなく……いや、文字通り一体の死に神が居た。
エイルの目に映ったものは、断首台で首を落とすために用いる両手鎌を手に持った、黒く禍々しい装束を纏う髑髏の姿だった。眼球を失った眼窩は深い闇をたたえ、見ているだけで地獄に吸い込まれそうな悪寒を誘う。皮膚や肉のない骨だけの手は鎌の冷たさを感じることもなく、その骨格だけの体は荒涼とした風に吹かれて所々が腐っており、触れるだけで死に蝕まれると確信できるほどの嫌悪感と邪な気に満ちていた。
そう。
広いとは言えない小柄なアプリリアージェの背中一面……いや正確には左肩から右の尻たぶまで、入れ墨で一体の死に神が描かれていたのである。そして褐色の肌を覆うその死に神は、傷だらけであった。いや、死に神だけではなく、よく見ると少女の肌には大小無数の消えない傷で覆われており、それはいくつもの修羅場を潜った無言の証人に他ならなかった。
ひときわ目立つのが左の尻たぶに斜めに走った大きな傷で、綺麗な丸みのある肉に醜いギザギザの爛れを刻み込んでいた。
おそらく、その時間はほんの十秒くらいだったのだろう。だがエイルにとっては凍り付いた様なその時間は何分もの長さに思えた。アプリリアージェに見せられたその背中に向かって、どんな言葉を掛けたらいいのかわからなかった。いや、それどころかその場所から一刻も早く逃げ出したい衝動に駆られていた。にもかかわらず体は金縛りにあったようで、エイルの意志に反し足は全く動かなかった。
エルデと言えばさっきから無言のまま何も語らず、そしてアプリリアージェも少しうつむき加減で無防備にうなじを見せたままずっと無言であった。
息苦しい沈黙を破ったのは、アプリリアージェが尻の下まで脱いでいたバスローブをするすると引き上げる衣擦れの音だった。
「いきなり醜いものを見せてしまってごめんなさい」
後ろ向きのままバスローブの前を合わせ、エイルに対峙してからアプリリアージェはようやく言葉を発した。もちろん、顔はいつもの笑顔のままであった。重苦しいエイルの気持ちがその表情でようやく少しほぐれた。とはいえ、なんと答えていいのかわからずにまごつく事しかできなかった。
「私と結婚する殿方は、おそらくは夜の闇の中でのみ私を妻としてくださることになるでしょうね」
何も言わない、いや言葉を失っているエイルにアプリリアージェは自嘲気味にそう言葉を継いだ。
「あの……。いや」
「軍内部で付けられた私の二つ名はもともとはこの背中の入れ墨から来ているんです。入れ墨は軍に入る前に彫ったものですが、周りが面白がってすぐに通り名になってしまったというわけです」
そう言うアプリリアージェの笑顔にはいつものように濁りがなかった。
エイルはアプリリアージェとはこういう人なのだとその時心の中で思い込むことにした。「こういう人」がどういう人なのかとエルデに問われても、その後エイルにもずっと説明ができずにいたが、とにかくその時そうやって屈託なく、そしてちょっと申し訳なさそうに首をかしげ、にっこりしているダークアルヴの少女こそがアプリリアージェその人なのだと思ったのだ。しかし、その少女が背負っているものは暗く近寄りがたく、そしてどうしようもなく重いと感じていた。
「さっきの一つ借りの分ですが、これでお返しをしたということでいいでしょうか?」
「え……。ああ……それはもちろん」
「ありがとう」
エイルの返事を聞くと、アプリリアージェはさらににっこりと嬉しそうに笑った。その笑顔に作為や戦略的な思惑があるなどとエイルにはとうてい思えなかった。いや、もしあったとしたならば、喜んでその作為や戦略にはまってかまわないし、たとえそれで死んでもその決断に全く悔いはもたないだろうとも思った。
若い少年のこの手の感情を、思春期に特有のありふれた胸の高まりだという人もいるのだろうが、もちろんエイルにそんな自覚はなかった。
(この人は絶対悪い人じゃない)
それが、エイル・エイミイがアプリリアージェに対して心を開いた瞬間であった。
「そうそう。それからこれはお願いですが」
「え?」
「今のことはくれぐれも内緒で」
「はあ」
「この入れ墨は人に見せるための芸術作品などではなく、私が自らに課した戒めです。ごらんの通り見て気持ちのいい物ではないので、できるだけ人には見せないようにしてるんです。それに」
そこまで言うと、アプリリアージェは少女のようにいたずらっぽく緑色の瞳を輝かせると、エイルの目をのぞき込んだ。
「二人っきりの部屋で私の裸を見たなんて誰かに言ったら、多分この後いろいろ問題ですよ。すでにご存じの通り、我々一行は若い女の子が多いのですから」
「り、了解」
エイルは不覚にも顔を赤らめてそれだけ言うと、きびすを返してあわてて部屋を後にした。
アプリリアージェは「戒め」と言ったが、なぜ死に神の入れ墨を彫ったのかは聞けなかった。いや、エイルからその質問が出ないように、アプリリアージェは会話を誘導していたに違いない。
『あの人にはかなわない』
エイルはそう思いながらも、この先成り行きによってはアプリリアージェと戦う可能性があることも理解しているだけに、複雑な思いだった。
エイルは立ち止まるとアプリリアージェの部屋の扉を振り返った。
「ファランドールでは、誰も信じるな」
この世界にやってきてからエルデがエイルに対してずっと言い続けている言葉が、頭に響いた。だが、エイルは改めて思った。信じられる人もいるのではないかと。そうでなければ自分自身が辛すぎるのだという事に改めて気づかされた出来事だった。
「信じたいな……」
エイルはそう声に出すと、扉から視線を外した。エルデは何も言ってこなかった。だが、エルデに忠告されるまでもなく、アプリリアージェ・ユグセルは信じてしまうには恐ろしすぎる人物であることもまた理解していた。
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